第一条「知育にかたよらない」
自分の子供には、より良い教育を受けさせたいと願うことは、子供を持つ人なら誰でもが考えることである。「知育する」ことは子供を育てる上で大切な一項目である。ただし、知育は脳の活動を盛んにさせることであり、もし、それが「心の発達」とのバランスを欠いたものなら、一時は知育のおかげで高学力になっても、その「ひずみ」はどこかで現れて来る。
子供の学習能力が高いと、知育は成功したように見える。しかし、「心」の発達がそれに伴わない場合、子供は、イジメ、又は逆イジメ(イジメていた子が、逆に、周りの子から反発をくう)に会うようになる。それは、低学力を原因としない不登校・引きこもりを招く。
又、こちらの方が圧倒的に多数なのだが、体験を通さないと知力が開発されにくい子が自分に合わない知育を受けると、かなり早い時期に問題が出てしまうのである。それは体験派の子が幼児期に「知育」ばかりに時間をかけられて、自分で好きな遊びをする時間が少なくなると、「自分という中心」が弱くなるからである。
考える力が弱ければ、小学校でも高学年になるにつれ、さらに中学、高校と進めば進むほど低学力になってしまう。さらに、自我が弱いとイジメに会った時に、反発したり言い返したりできないためにイジメが止まらず増長してしまうのである。そういう場合も、結局、不登校・引きこもりを招いてしまう。
この項では、なぜ、知育に時間をけずられて自由遊びが少ないと、自分という中心(自我)が不完全になり考える力が弱くなるのかを、詳しく、実例を挙げて述べてゆくことにする。
「お受験」は通過したが
もう、大分、前のことになるが、私のやっている学習塾に私立小に通っているという小学三年生の男の子を連れた夫婦が訪れて来たことがある。身ぎれいな一家であり、男の子は、白い、陽に当たった事のないような肌をしており、その身なりは遊び盛りの年齢としては驚くばかり整ったものであった。母親の様子も印象深いものだった。高級で美しい衣服のみならず、髪や肌の手入れも目を見張るようだったのである。三人並んで座ると、その母子は絵に描いたようであった。
男の子は、正に、つくりもののよう、そして、その母親も「完璧な形」が人間離れしたような感じの人だったのだ。一人、父親のみが、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
自由に遊ぶ時間が少なかった
勉強ができなくて困って来塾して来たという話だが、その子は私立小に通っているのだ。言いかえれば、名の通った私立小の入試に合格した子なのである。見た感じも、年齢相応の知力は身についているように見える。落ちついて椅子に坐り、私を見ると少し微笑んだりして挙動に問題はない。よく躾けられており、あいさつもできるのだ。
両親の話では、(幼稚園の後の時間は)私立小入試のための××アカデミーというようなところに、毎日のように通っていたという話である。体験学習をしてみると算数の計算などは、きちんとできてはいたが文章題が弱い。又、ある問題ができるようになっても、少しパターンや表現を変えた問題になると行きづまるのである。要するに、「考える力」が弱いのだ。
なぜ、そのようになってしまったかを考察すると、この子は「教えられたとおりに表現する事」ばかりを、幼い時から長期間、長時間、訓練され続けてしまっていたからである。だから、この子の行動は中からほとばしる知的関心や「これをやりたい」「あれをやりたい」という“やりたい衝動”から生れるものが少ないのだ。そのために考える力に欠陥が生じてしまったのである。「知育は悪いこと」ではないのだが、目ざめている時の多くの時間を知育のみに費やしすぎてしまい「自分で自由に遊ぶ時間」が少なすぎたのである。