僕の住む高台の一帯は各省庁の官舎が広がる。特に中心部は外務省官舎と呼ばれていた。その周囲をまるで城を守る旗本屋敷のように寄り添って地方官僚の家が並んでいる。さらに、一帯は子どもの背丈よりも高い石積みで一段高くなっていて、引揚者住宅を見下ろす格好だ。まるで城主が城下町を俯瞰しているような景色だった。
僕は、2階の物干し場から下界を眺めるのが好きだった。富士山の五合目から町全体を見下ろす気分。地形的にも引揚者住宅からはかなり見上げる位置にあって、官舎群は完全隔離された城のように見えるわけだ。引揚者住宅は旧陸軍の連隊兵舎をそのまま後利用したもの。「連隊兵舎」とか「満州引揚者」ってわかるかな? このホワイトボードに書いておくから質問は後にまとめて受けようか。この話は半世紀近く前のことだから、今日のメンバーは誰も生まれていないよな。
一個師団を超える兵隊を収容していたそうだ。ざっと1万人も住んでるわけで、どれだけ大きな引揚者の街だったか想像してほしい。
官舎の住人と引揚者住宅は表向き諍いはないが、この町は決定的に分断されていた。登下校時にどこからか僕の背負うランドセルめがけて石を投げつけてくる者もあった。悔しくて、ベソかきながら帰ったこともあったなあ。
官舎に転居して間なしに、引揚者住宅では住人同士の喧嘩で死人が出た。なんと中学生同士が殺し合ったんだと。官舎の住人たちは兵舎の近くを通るのも怖がった。一帯はスラム街として恐れられていたということだ。
息子の登下校の安全を心配した父から、「拓史、あそこを通って学校へ行くな」と言いつけられていた。小学生にはその意味するところがわかるはずもないから、僕は大回りして小学校へ向かうことはしなかった。黒い杉板壁の2階建て兵舎が立ち並ぶ団地を通り抜けて登下校していた。外壁にはコールタールが吹き付けられていて、ツーンと鼻を刺すような油の臭いがする街だった。
ホワイトボードには「官舎」・「満州引揚者」・「中国残留日本人孤児」などの書き込みが並んでいく。彼は皆の反応がまだ掴めそうもないが続けることにした。