第一章 伊都国と日向神話
3.「秦王国」から南九州に移住する秦の民
大隅国の国府は贈於郡の稲積に置かれた。贈於郡から桑原郡が分郡するが、この「桑原」という地名も、前述したように豊前の田河郡香春郷にある。香春の桑原に今もある桑原神社の祭神は、香春神社の祭神と同一祭神であり、香春神社の祭祀氏族の赤染氏は、辛島氏と同系の秦氏族である。
大隅の地には、大隅国の創立以前から、秦王国の移住者がおり、文武天皇三年(六九九)の頃には、稲積に城を築いたが、和銅六年(七一三)の大隅隼人の反乱で、稲積やその周辺にいた豊前の秦王国から移住した人たちは、身の危険にさらされた。そこで、彼らを守るため、和銅七年に、豊前の人々が五千人ぐらい、移住したのであろう。九州の中でも、特に豊前の人が選ばれたのは、先に同郷の人たちが移住していたからだが、豊前の人といっても、主に秦王国の人たちの移住であったのは、先住の人たちが秦王国の人たちであったからであろう。
このように豊前国の秦の民は、魏志倭人伝の時代(3世紀)から持統・文武天皇の奈良時代(8世紀)にかけて、大きくは二つの移住期を経験した。一回目は伊都国王の地勢戦略上の判断から出たもので、肥国に勢力を張る豪族キクチヒコを封じ込める作戦=狗奴国包囲作戦によるものであった。
二回目は奈良の政権側の要請によるもので、南九州の隼人を教導する役目を負っての移住であった。その間には律令制実施にともなう隼人の反乱があって秦の民にも危険が迫ったが、文武天皇治世下の大宰府は城や柵を築き、また守備人員の増加によって、これを凌いだのである。
これらの移住によって、秦氏の神話(日向神話)や神社が移住先に移され、そちらにも神の名前や地名に同じものが見出されることになった。秦氏一族は、もともと天孫降臨の時のお供であったため、最初の住処は伊都国であった。そのため伊都国周辺では、秦氏が持ち込んできたユダヤ系神話をベースとした日向神話が語られ、日向神話の神々の名前や地名などが揃っている。
それらの地名はまた、天孫降臨神話の地名にも重なっている。秦氏の人々が移動して、秦王国=豊国を本拠としたあと、日向さらに大隅・薩摩に移住することによって、それらの名前や神話も移動していったのである。
また神々を祀る神社も建てられ、秦氏一族がその創建に深く関わっていた。『秦氏の研究』が述べる、大隅国の式内社四社に関する部分である。
大隅の式内社は、もう一つの秦王国である大隅の秦氏系氏族の居住地域内(桑原郡・贈於郡)のみにあることが、注目されるが、特に問題なのは、鹿児島神社(正八幡宮)と韓国宇豆峯神社である。
中村明蔵は、「韓国宇豆峯神社が国府の東に存在」し、「西には正八幡宮が存在」するのは、豊前の香春神社と宇佐八幡宮の関係と関連があり、両社が「一体になって神事をとり行う関係」が、「そのまま大隅国府の地にもちこまれたのではないだろうか」と推測し、この両社(韓国宇豆峯神社と鹿児島神社〈正八幡宮〉)は「一体として、移住民の守護神として配祀されたにちがいないのである」と書く。
そんな霧島市の鹿児島神社(鹿児島神宮)の創建は和銅元年(七〇八)と伝えられ、ご祭神は天津日高彦火火出見尊、豊玉比売命である。海神豊玉彦の娘が豊玉比売であり、彼女の夫が彦火火出見(火遠理命=山幸彦)である。
韓国宇豆峯神社の方は、移住翌年の和銅八年創建であり、ご祭神は五十猛神(あるいは天児屋命とも)である。五十猛は紀伊国の伊太祁曽神社に祀られているが、出雲系の神(スサノヲの子)である。別伝の天児屋は中臣氏(藤原氏)の祖であり、天孫降臨神話にはニニギに従って、「五伴緒」の先頭で登場している。
神社名にも、ユダヤ系秦氏の創建を思わせるものがある。すなわちもう一つの鹿児島神社(鹿児島市)の旧名が宇治(氏)瀬神社であり、宇治=UJI(UDI)が付いている。韓国宇豆峯神社はもう、名称そのものに宇豆=UDUが入っている。
天児屋の藤原氏にはHUJI(HUDI)があるし、スサノオや五十猛も、ユダヤ系首長の国である出雲のリーダーたちであった。その出雲国にも秦氏の足跡があることは、前著(『魏志倭人伝の中のユダヤ出雲大社に隠された「ダビデの星」』)で述べた。