40

滅びるものはいつも美しい。安っぽくいえば、東西共通の感覚である。正確には、美しく映るというべきかもしれない。虫も、花も、獣たちも、生きとし生けるものすべてに対して共通する、その頂点に立つホモサピエンスならではの感情・感覚である。

ただ、滅びに任せる「滅びの美学」をどうも苦手とする者も多い。自分たちが生きた痕跡を残したいのが人の性なのだろうか。この人間一匹一代の思い出の文物・建造物への執着が商業主義と絡むと、「何でも残そう屋」と化し、ことは面倒になる。

さらに、「痕跡フェチ」のジャーナリストの言が加わると、一層ややこしくなる。地球の歴史など、ものもことも、累々たる絶滅・死滅と死骸の累積ではないのか? と思うのだが……。

超過疎化した地域の小中学校、村施設、神社・仏閣、開拓村跡、縄文・弥生の小さな集落跡。世界に目を転じればバカでかい権力者の墓や王宮と付属施設。そこにあれば執着するが、天変地異で消滅したら、それはそれでいいと私には思える。

もし、この星からホモサピエンスが絶滅したら、巨大な文明の痕跡も風雨と太陽光で2000年ももたない。また、138億年の天空暦から見れば、ホモサピエンスの出現は、1月1日に始まるとしてわずか年末12月31日一日のことだという。1000年のスパンで考えたら、執着に値するのであろうか。

冷酷と言われそうであるが、動植物の「絶滅危惧種」に対しても、絶滅助長に手を貸すことがあってはならないが、すべて人間が悪いとする人禍論者の仲間にはなりたくない。膨大な国家予算を費やしてまでして一種に至るまで危惧種を守り抜く理由は見い出せない。非人為の河川・海や森林の環境下で秘かに絶えるものはそれに任せるのが地球の理であろう。

41

一旦山に入ったら、誰もがワンオブゼムである。大自然のなかでは、誰もが無力な一匹の生き物に過ぎない。ただ、謙虚な気持ちで山に入らせていただくのみである。この理解がない芸能人だのスポーツ選手だのの、「目立ちたがり」行為やお馬鹿な「パフォーマンス」を見ると、山に登らないで! との気持ちについなってしまう。

また、山のベテランガイドからすれば、この種の人たちが、山のイロハのイ程度の知識を、したり顔で垂れるのも噴飯ものであるに違いない。木も花も岩も、空気も風も、そして山々も、そこにただ存在する。ワンオブゼムの気持ちで登らせていただくことにしようではないか。