この街に

美子の田舎では見ることの出来ない幅の広い、ゆったりとした大きな川のほとりの広場に爽やかな風が吹き渡っている五月の初め。

「遠くの山が幾つも連なって霞がかかったように、ぼんやりと見える。わたしの故郷はあのずっと向こうの山の麓にある。其処を離れてから半年あまりが過ぎようとしているけど、母さんたちは元気にしているかしら……。でも、わたしが田舎の家を離れることには、賛成してくれた……」と思いながら、美子は広場の左端の方に立って遠くの山を見ていた。

幼い子供を乳母車に乗せて、会釈して通り過ぎる若い女性に会釈を返した後、美子は、川の方に視線を移した。

その時、ふと「この川は少しも流れていないみたい。此処は河口に、そして海にも近いらしいけど細さ ざ波も立っていない。水面もこんなに澄み切っているし、この青はとても綺麗。こんなに大きくて静かな川に似ている湖を小さい頃、父さんと何処かで見ていたような気がする……」と思い付いたが、美子は、その場所が日高の奧地の方にある、「椿山(つばやま)のダム湖」であったということには気付いていなかった。

誰が見ても本当に流れていないのではないかと見間違えるような大きな湖か、池かとも思える、透明で美しく青く澄んだ川が悠然と目の前に広がっていた。美子は何時もの癖で、その光景を見ながら暫く立ち止まって三十一文字を考えていたが、ふと閃いたのは、

   ()はやかに五月の風を渡らせてあくまでも澄む(うみ)に似る川

であった。

其処は和歌山市の中心部から少し離れた北側に位置している、紀の川の河口に近く、空気の綺麗な紀の川平野の中心部であり、大人の散歩にも子供の遊び場にも気に入られそうな環境の良い所であった。

美子は初めて見る、その大きな川のほとりをゆっくりとした足取りで歩を進めながら、三十一文字を考えていた。

暫くして、「でも、わたし、この街にこれから馴染(なじ)んで住むことが出来るかしら……」と不意に一抹の不安が脳裏を過よ ぎった。その直後に、言葉ではとても表現出来そうにないような寂寥感に襲われた。美子はその恐怖にも似た寂しさを払拭して冷静になろうと、軽く頭を横に振った。

「そういえば、わたし……」と、独りごとを言って軽く瞼を閉じた。すると、瞼の奥の方からひとつの光景が浮かんできた。

「夫の博さんと白崎海岸で初めて会ったのは一昨年の夏。二度めは偶然、電車の中で会い、もう一度白崎海岸で会った。その後、文通をしながら彼の休日にはスケッチ旅行を目的として、わたしは歌の材料を探すために日帰り旅行を重ねたのだった。その後、わたしが彼を両親に紹介したのも彼の両親に、わたしが紹介されたのも、白崎海岸へ行ってから半年ほど経った後であった。でもなぜかしら、それが昨日か一昨日のことであったような気もする……」と、思いを巡らせられるまでに気持ちが落ち着いてきた。

【前回の記事を読む】「全てが、あの日の光景と同じような気がする」無意識に導かれるまま、海へ