また夕方になると彼はやって来る。カフェ・トロワの店内は拓史の念願通り、壁の一面が立派なフォト・ギャラリーに化けている。全倍の大作数点が壁面を占有している。
モノクロで真由子の肖像写真が2点。一点は唇と頬だけをエアーブラシで薄く手彩色した。このピンク系の絵具を使った加筆印画は、小絵の意見を取り入れ何度もやり直した。写真に直接メイクするような技法。あるフランス人写真家の技法を真似ている。その隣には小絵をモデルにした実験的なもの。バックグラウンドに至るまで全面手彩色で、モノクロをカラー化した。
拓史は何度もやり直しては真由子に意見を求めてみたが、どうも嫉妬を買ったらしく、拓史は3日と経たずトロワ・スタッフ全員の集合写真と取り換えた。ほかの2点はスコットランド・アイラ島の風景。海沿いに建つ蒸留所のモノクローム印画。陰鬱なダークグレーの空が拓史のお気に入りのようだ。
「あーぁ、幸せ!」
このごろ、真由子の口癖になっている。
「今日はまた、どうしたんだ。かわいいぞ」
「社長が私のステージをつくってくれたし、こんなカフェであなたと一緒に人をもてなすのが私の夢だったの」
「それは良かったな。忙しくて音を上げたのかと思ったよ」
他人といっても二種類いる。波長の合う相手、どうも歯車が少し噛み合わないと感じる相手。拓史と真由子の場合は、時に親子で時に兄妹のように振る舞ってきた。互いに何も気にならない存在。それでいて相手が気づくことなくフォローし合っている。そばにいることが当たり前になっている。
取り巻きから眺めると、社長と社員という関係にはどうしても見えない。この御器所通沿いのトロワには、ランチタイムに近所のビジネス客が集中する。モーニングセットの高価格路線は正解であった。
ランチは拓史自慢の厚切りベーコンのカルボナーラと、もう一つだけレパートリーを持っている。パンに自家製のハムペーストを挟んだホットサンド。シンプルだが、学生時代のバー勤めで覚えた自家製マヨネーズ・ソースのおかげで絶妙な味に仕上がる。これは商店主たちの小腹を満たす格好のブランチで、2枚目をおかわりする客もあった。
ランチタイムの仕込みは前日に終わらせている。パートタイマー3人が大活躍する。献立は真由子の独壇場。どちらかといえばヘルシー志向で女性客が圧倒的に多い。拓史が資金のすべてを投じた写真スタジオ〈トロワ〉。そしてカフェ〈トロワ〉を中心に事業を展開しようとする真由子。両者のバランスを取り持とうとする仁美。主軸のカメラマン内藤と撮影に夢中になっている小絵。
トロワを舞台に1999年は暮れようとしていた。