さて、浜名湖で英検1級の合格祈願をしたといっても本気で合格できると信じていたわけではない。また英検1級が最終ゴールではないとは思っていたし、英検などと関係なく英語の達人は日本にもあまた存在することは分かっていた。カメのゴールとしては英検よりもう少し高い山をめざしたい。それはゴールなきゴールであるともいえる。

以下に1950年代にまで遡(さかのぼ)って、私というカメの過去の歩みを振り返ってみよう。いかにこのカメが英語道の道草を食ってきたかが理解できよう。

中学・高校時代

中学から高校に入る頃は陸上部の主将を任されていたが、一方で私は日本の近代文学から始まって、次第に外国の小説を読むのが好きになっていた。農家の次男坊だったのでいずれ家を出て行かねばならない宿命と思っていた。

早くこんな田舎から東京へ出て行き、将来は文学とか新聞とかに関係する職業に就きたいと、生まれたばかりの姪をおんぶして、子守りをしながら本を読んでいた。農家だった家には小説などの文学本はまったくなかったし、父親の小さな本箱には「葉隠の武士道」とか「弁証法的唯物論と史的唯物論」などという中学生には興味が持てない書籍が並んでいたのを覚えている。

しかし、高校に入ると、田舎とはいえ学校の図書室には翻訳された有名な外国の文学も結構並んでいた。英米文学よりもフランスのスタンダールなどの小説のほうに私は興味をもった。NHKラジオのフランス語講座を聞いたりして、将来は仏文学を研究したいなどと夢想してもいた。

高校以前、中学3年のとき、学校のPTAの会合から帰宅した父親は担任の先生から「息子さんは高校へ進学するのでしょう?」と聞かれたと私に言い、私が高校へは行きたいと告げると「自衛隊に入ったらどうだ、給料をもらいながら資格も取れるし」と、満州(現在の中国東北部)で軍隊経験のある父は私の夢など意に介さない様子だった。

しかし結局、高校ぐらいは出ておきたいとの私の主張に納得してくれた。当時、村の中学で私たちの学年は男女別学で、男女合計で90人余り。その中で高校に進学する生徒は、定時制を含めて12~13名にすぎなかった。あとは家の手伝いとか、大工の見習い、住み込み店員、町工場の工員などとして就職するのが大半であった。

高校は普通科と農業科、家政科があり、家の農業は兄が継ぐので私は普通科に入学した。高校でも陸上部に入るよう先輩に勧められ、3年次にはキャプテンにさせられた。400メートルの選手として県の大会で入賞し、関東大会まで進んだがそこでは予選落ちであった。