第2章 仏教的死生観(1)― 浄土教的死生観

文化庁発行の平成28年『宗教年鑑』で宗教法人団体数を見ると、寺院で最も多いのが浄土系で三〇、〇七二、次いで禅宗系二〇、九九四、信者数で見ると、浄土系が二二、七五五、四四九人、次いで日蓮系一一、八九二、五三九人とある(ただし、数字は自己申告によるもの)。

浄土系では浄土真宗が最多の勢力である。浄土系の教え(特に浄土宗と浄土真宗)を上記『宗教年鑑』の文章も参考に簡略化して言えば、死者や我々凡夫(ぼんぷ)は阿弥陀仏の御名を称えるその功徳で極楽浄土に引き取ってもらいそこでやがて悟りを開く、もしくは阿弥陀仏への信心が定まった時にその慈悲によって救われて仏となる、ということになる。

第1節 浄土教的死生観の広まり

まず日本人に仏教的な死生観が根づいた理由を確認したい。

「鎮護国家」を担う思想として受容された古代仏教だったが、古代の人々の忌み嫌った死の穢れ(『古事記』に載る、妻イザナミの死体の腐敗に対するイザナギの恐怖と嫌悪が典型―新妻註)の除去の方法、また死者霊の鎮魂・供養の方法としての「仏教式の葬儀や死後の供養」(真言陀羅尼や称名念仏などを含む)の呪術性を人々が支持したこと、これが大きな要因だったと推測される。

「死は最大のケガレであり、ケガレとはまがまがしい非日常性の侵入にほかならない。(中略)アラタマ(新しい死者の魂)の跳梁に対して、(神道的な)ミソギやハラエだけではあまりに弱すぎる。そんな時、仏教は新たに強力な呪力をもって現れた。経典や呪文の力は死者のアラタマを無事に安らぎの国へと送りとどけ、人びとを温かく見守るホトケへと変容させることができた」

(末木美文士『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』新潮文庫 ⑩。( )内は新妻註)とされるゆえんである。

無論、知識層には仏教の深遠な思想性(輪廻と解脱の思想や空観など)や宇宙・世界観(一念三千世界とか法身仏などの観念-新妻註)も圧倒的な魅力だったには違いないが、「死生観」との関係では、仏教の持つ浄土教的な死後世界観(特に源信が『往生要集』で示した極楽浄土と地獄の観念―新妻註)が平安時代以来、強い影響力を持った。

なお、「浄土教」といえば、鎌倉新仏教以後は、浄土宗、浄土真宗、時宗、あるいは念仏禅である黄檗宗の宗派の教えを狭義には指すであろうが、「朝題目夕念仏」が日課といわれた比叡山天台宗(題目とは法華経)に包摂されていた「念仏や浄土の観想」の教えとここでは理解していただきたい。

末木の上掲『日本仏教史』によれば、

源信や慶滋保胤(よししげのやすたね)らに指導された叡山僧の結社である二十五三昧会(ざんまいえ)は、仲間同志で助け合って念仏往生を目指すとともに、死後には念仏葬儀を行い、光明真言によって加持された土砂を亡者の遺骸にかけること、安養廟(あんにょうびょう)を作り、卒塔婆(そとば)を立てて墓所とすることを定め」たが、

一般の庶民については

「正式の得度受戒を経ない私度僧(しどそう)の系譜に属する」聖(ひじり)たち(源信より年輩の空也もその一人だった―新妻註)が、「行き倒れた人の埋葬などにも携わり、民間への念仏の普及にも大きな役割を果たした」。

その後、中世になると、鎌倉新仏教の宗派を問わず、「葬儀や死者供養への関与は著しく進」んでいく。

特に曹洞宗では、中国の宋で編集された『禅苑清規(しんぎ)』という書物に禅宗の葬式の方法が記されているが、

「その中の修業の途中で亡くなった僧侶のための葬儀法を在家の信者にも適用、戒名を授けるという方法もそこから来た。さらに、儒教の祖先崇拝が禅宗にも取り入れられていった」

(島田裕巳『葬式は、要らない』幻冬舎新書 二〇一〇年)。「儒教の祖先崇拝」云々は「墓」や「位牌」や「盂蘭盆会(うらぼんえ)」などの導入のことを指している。

なお、臨済宗の僧侶である作家の玄侑宗久氏は火葬について、

「遺体を焼くことに抵抗がなくなったのは、浄土教が出てきたからでしょうね。阿弥陀仏を信じれば、極楽に往生できるというわけですから。(中略)死後のヴィジョンに関して浄土教を超えるものはないんじゃないかと思います。禅宗のお葬式でも、結局阿弥陀仏に登場していただかないと収まりがつかないんです」

と語っている(『まわりみち極楽論』朝日文庫 二〇〇三年)。

確かに、禅僧の釈宗演が導師を務めた夏目漱石の葬式でも、その柩には「細くきざんだ紙に南無阿弥陀仏と書いたのが、雪のようにふりまいてある。先生の顔は、半ば頰をその紙の中に埋めながら、静に眼をつぶっていた」と芥川龍之介は報告している(「葬儀記」大正6年 新潮文庫『羅生門・鼻』昭和35年 所収)。