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「……そうですか、分かりました」

熊岡愛瞳(くまおか まなみ)は、力なく呟くと、スマホを耳から話した。

電話の向こうの人物が言った言葉は、予想外ではない。しかし、それは気持ちをより重くした。

「葵、どこに行ったの……」

会社のリラックスルームで、窓の外を見ながら呟く。

昼過ぎから降り始めた雨は、徐々に勢いを増し、ビルの8階から見える景色を滲ませている。

「……」

2日前の夜、仕事を終えた愛瞳が、タクシーの後部座席でウトウトしていると、手に持っていたスマホが震えた。親友の三輪葵(みわ あおい)からで、チャット画面には『転職先が決まった』とあった。

高校を卒業してすぐに働き始めた愛瞳は、これまでに2社を経験して、アパレルショップを運営する現在の会社に転職。2年目にして、エリアマネージャーを任され、担当する5店舗の売上や職場環境向上のために、忙しくも充実した日々を送っていた。

だが葵は、大学を卒業して入社した会社が、ブラック企業だった。バイトはしたことがあっても、社員として仕事をするのが初めてだった葵は、入ってすぐに、テンションが上がるだけで中身がない、詐欺まがいの自己啓発セミナーのような研修を受け、会社の方針を叩き込まれた。

それは、客観的に見ればおかしいもので、後に愛瞳に話す中で気づいたが、それまでは、自分が頑張らなきゃいけない、自分の頑張りが足りない……そう思い込んで、心と身体を無駄に疲弊させて仕事をしてきた。

愛瞳は、別の会社に転職することを提案したが、洗脳されている葵は、会社に疑問を感じながらも、中々首を縦に振らず、体調を崩して1ヶ月ほど休まざるを得なくなって、ようやく重い腰を上げた。それでも、復帰してすぐは、会社に迷惑をかけた、せめてその分を補ってから……と言っていたが、愛瞳に説得され、転職活動を始めた。

そして、数社から不採用通知を受け取った後、3日前に面接を受けた会社から、今日採用の連絡をもらったと、メッセージには書かれていた。愛瞳には、それが自分のことのように嬉しかった。

「お祝いしよう」

葵から連絡をもらった日、そう約束した。しかし昨日の朝から、チャットは既読にならず、夜、待ち合わせ場所に行っても、葵は来なかった。チャットを送っても、電話をしても繋がらず、葵の両親に連絡してみたものの、こっちにも帰っていないし、連絡もつかないから捜索願を出すと、さっき電話があったのだった。

「葵……」

スマホを見ても、2日前の「じゃあ明日ね」というチャットのまま、いずれ既読になるという小さな願いも虚しく、愛瞳は、自販機の機械音だけが聞こえるリラックスルームから、動けずにいた。