「これは失礼。何も知らない君にとって、ここは笑われるところではなかったかな。しかし君は何か勘違いしているようだ。さて本題に入るとしよう」

それから佐川常務が話されたことは、先週から悩みに悩み苦しみぬいた時間はいったい何だったのか、自分で自分がバカバカしくなるほど満足感に満ちた内容でした。まず新しい赴任地へは一年間の期限付きであること、そしてこの異動は本社での次のステップアップに向けて現場を知っておくための必要な通過点であることなどを、真摯な態度で事細かに説明してくれたのです。

さらに常務は、将来この私に「大同石材を託す」心づもりであることまで打ち明けてくれ、

「初めから話しておけばよかった、君がこんなに傷ついているとは思わなかった。辛い思いをさせて悪かった」

と言ってくれたのでした。役員室から出る私の心は秋晴れの空のように澄み渡っていました。つい一時間前にここを訪れた時の気分とは天と地の違いです。実際常務にも、

「来た時には自殺でもしそうな顔をしていたね」

とからかわれ、誤解の解けた二人で笑い合ったものです。

話が済み、役員室のドアを後ろ手に閉める私の動きを遮ったものがありました。加瀬久美子です。

「常務がこれを佐伯さんに、と」

久美子が差し出してきた厚めの封筒には、異動への承諾書やその他諸々(もろもろ)でも入っているのでしょう。ずっしりと重いその中身は、もはや私を(おびや)かすものではないはずです。

「ありがとう。とんでもないところを見せてしまいましたね」

「佐伯さんのお立場なら当然の談判ですわ」

久美子が私を全面的に援護してきました。

「加瀬さんにはお世話になりました」

中で常務が聞き耳を立てているかもしれない。私はできる限り普通の様子で久美子に言いました。

「お元気で。お帰りをお待ちしています」

含みのある言い方と上目遣いで私を見つめる久美子の表情には、自分に対して七年間、何のアクションも起こさずにきた男をひたすら待ち、耐えた女の、わずかな恨みが混じっているようでもあり、私が赴任から戻る一年後にこそ何かが起こるはずだと期待しているような、甘やかなうずきも見て取れました。