【前回の記事を読む】「あれだけの美人だ」と言われる女性に飛び出た“とんでもない噂”
第一章発端
加瀬久美子が大同石材に入社してきたのは、私の入社後三年経ってからです。大学のミスコン女王にも選ばれたこともあるという清楚な美貌は、入社当時から男性社員の注目を一身に集め、加えて二年目にその才覚を買われて佐川常務の秘書に抜擢されてからは、美人秘書というスペックが一段と彼女の「高嶺の花感」を増大させたようで、有名女性月刊誌の「輝く女性たち」という特集の取材を受けたりもしていました。言わば社内の憧れの的であった久美子に言い寄る男は、社内社外を問わず数え切れなかったと思います。
独身男同士の飲み会などでも、必ずと言っていいほど久美子の話題が出ました。
「こないだ意を決して加瀬さんをデートに誘ったんだが、ものの見事に撃沈したよ」
ある者がカミングアウトすると、別の者も、
「なんだ、お前もか!俺もダメだった」
と言い出す始末で、もはや久美子を誘うこと自体が男の勲章のような位置づけになっていたのです。
「あれだけの美人だ、もうとっくに決まった相手がいるんじゃないのか?」
「いやいや、佐川部長のお手付きだっていう説もあるぜ」
と、とんでもない噂まで飛び出す具合でした。
私とて久美子に関心がなかったわけではありません。しかし、私には何を聞いても動じない確固たる自信がありました。部長室を訪れた時の短い挨拶、何かの書類を手渡しする際の一瞬の指のふれあい、廊下ですれ違いざまに私を見る目つき、同じエレベーターに偶然乗り合わせた時の二人だけの間に漂う微妙な空気、日々のほんのささやかな出来事の積み重ねの中で、久美子の自分に対する紛れもない好意を私は確信していたのです。それは、二人の間に何もないからこそ、却って信じられるような「見えない絆」とでも呼ぶべきものでした。
もちろん私さえ久美子に声をかけていたなら、たちまち恋人同士と呼べる関係に持ち込めたと思います。だが、私はそれをしなかった。何もせずに時間が過ぎていけば、久美子は煮え切らない私に見切りをつけて、どこかの御曹司と見合いでもして結婚してしまうか、社内の適当な誰かの腕の中に陥落してしまうかもしれない。それらを私が考えなかったと言えば嘘になるでしょう。だが、私には出世の方が大事だった。大同石材という日本を代表する石の会社でトップに上り詰めること、それが何にも勝る私にとっての到達点だったのです。