その年の春は、久しぶりに、朝鮮通信使が、将軍家治の継嗣を賀しに江戸に来て、町中が忙しくしていた。二月二十日には、神田新白銀町から火が出て、多くの町を焼き、鍛冶橋門も焼けた。
その明和元年、三月中頃、市村羽左衛門の番頭と市村座の帳元が大倉屋喜七に、
「また一つ、ご拝借をお願いに参りましたが」
と金を借りに来た。
京橋弓町の大倉屋の本宅の、二階の座敷で市村座の二人を前に、
「今回は、お断りだよ!」
と、喜七は冷たく言った。
市村羽左衛門が、驚いて、芝居が跳ねた後、飛んできて頭を下げたが、叶わなかった。
市村座は、大倉屋の先代喜八が、八代目の懇請を受けて贔屓にしたので、羽左衛門家の菊屋と大倉屋は、家と家の縁組のようになっており、硬い絆で結ばれていた。なかなかお互いに「いや」とは言えないのである。
それでも大倉屋喜七は断った。市村座に問題があった。その年の正月、市村座に出演の二代目市川団蔵が休演した。
二代目沢村宗十郎との喧嘩である。
そして二月の初午から、「助六」で大当たりを続ける中村座に、団蔵出演の噂が立った。
三月には、中村座に団蔵が飛び入り出演となり、四代目市川團十郎が披露の口上を述べた。
團十郎、団蔵の巨頭が中村座に揃い、大入り大評判になった。
看板の役者がいなくなった市村座は春の曽我狂言を開けることができなかった。市村座は多くの金主を回った。何とか金を集めなければ、芝居ができない。
大倉屋喜七は金を出す代わりに、毎月大赤字を出している。油見世の差配を任せろと羽左衛門に迫った。「先ず、金が出て行くのを止めるンだ!」
羽左衛門は渋々、認めた。
「見世のことは、全て任せてくれるンだね!」
喜七は腹に据えかねて
「口を出さないな!」
と言った。
喜七と同じ年の、羽左衛門は黙って頷いた。