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作曲家 Georges Auric

ジョルジュ・オーリック 1899.2.15 ロデーヴ─ 1983.7.23 パリ

 

ジャン・コクトーの証言によれば、作曲家集団である「フランス六人組」は1916年頃に構成されたようですが、その一員のジョルジュ・オーリックはエロー県ロデーヴに生まれました。

モンペリエ音楽学院でピアノを習い、次いで1913年、パリ音楽学院で対位法を指導していたジョルジュ・コサードに師事します。

1915年頃からエリック・サティ、イゴーリ・ストラヴィンスキーと交友を持ち、コクトーや画家のジャン・ユーゴ、コクトーの恋人レイモン・ラディゲとも友情を育み、六人組に加わりました。

ドイツから帰国したマリーは「狂騒の時代」にパリ社交界でオーリックとも交遊します。

マリーのパトロンの一人でもあったエチエンヌ・ド・ボーモン伯爵のマスラン街の邸宅で催された仮面舞踏会で、ヴィクトル・ユーゴーのひ孫であったヴァレンティーヌ・ユーゴーはマリーが描いた『ボーモン夫人の肖像画』と同じ衣装を着て皆の称賛を浴び、コクトーはギリシャ神話のマーキュリーの仮装をし、オーリックは皿の代わりにした小さい杖を持った黒人のコックに、マリーは白粉を塗りたくったポンパドール夫人に扮装したそうです。

コクトーが映画製作を始めるとオーリックも映画音楽の作曲をはじめ、『ムーラン・ルージュ』、『ローマの休日』、『悲しみよこんにちは』など現在でも広く知られている名曲を世に出します。