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小説家・サロン主催者Natalie Barney

ナタリー・バーネイ1876.10.31 デイトン─ 1972.2.2 パリ

 

パリ最後のサロン女性主催者の一人とされるナタリー・バーネイに、マリーは1947年、「ベネディクト派修道院での滞在は、言い表せないくらい優しさに満ちて、ほとんどが慈愛の世界でした」と手紙を書き送っています。

アメリカ、オハイオ州デイトンで鉄道会社の経営者アルフレッド・クリフォード・バーネイの娘として1876年10月31日、マリーと同じ日付で生まれたナタリーは、5歳の時ニューヨークのロング・ビーチ・ホテルで避暑に来ていた時、偶然アメリカ公演中のオスカー・ワイルドと出会い、彼との会話から霊感を受け文学・芸術の道へ進むことになります。

母親のアリス・パイク・バーネイはナタリーにフランス語を習得させるためにジュール・ヴェルヌの小説を原語で読ませ、ナタリーが10歳の夏の終わりにパリに二人の娘を連れてゆき、ナタリーは完璧なフランス語を習得したことにより、彼女の文学活動は全てフランス語で行われることとなります。

12歳の時にはもう自分が同性愛者であることを自覚、1893年知り合ったエヴァ・パーマー・シケリアノスと恋愛関係になります。レズビアンであることを隠すことなく著した詩集はスキャンダルからも大成功を収めますが、父親はこの内容が不道徳と怒り、妻と娘をアメリカに連れ戻し、発刊された詩集を全て買い取り焼却してしまいました。

しかしこのショックから酒量が増えてしまったアルフレッドは1902年莫大な資産をナタリーに残して死去してしまいます。

潤沢な資金を持ってパリに戻ったナタリーは、ジャコブ通り20番地の邸宅に住み、以降ここは60年にも及ぶ有名な「金曜日」のサロンとしてあらゆるジャンルの世界中のアーティストが集う場となり、マリーもこのサロンに通うようになりました。

マリーは1904年にナタリーに会い、自身の最初のレズビアン的な版画作品『ビリチスの歌 (紙にエッチングとアクアチント 1906年作 23.9×14.9cm マリー・ローランサン美術館では銅板原板を所蔵)』を作成します。

マリーが作品に女性的なものを主題として選んだのは、ナタリーとの出会いと影響が強く反映していると思われます。平和主義者で、男女同権を訴えた、ユダヤの血を引いていたナタリーですが、第二次世界大戦中イタリアに滞在していて、戦争に関する情報が枢軸国のものだけになり、連合国は侵略者であると考え、ヒトラーの意見さえ尊重し、反ユダヤ主義的な言動をとるようになります。

しかしユダヤ人夫妻をアメリカに逃亡させる手助けもし、いろいろな情報も入るようになり、終戦までには連合軍を解放者と理解しました。マリーとの友情を保ちつつ、戦後若い作家たちのためにサロンを再開しますが、ジャコブ通りの邸宅を追われたナタリーは1972年宿泊していたパリ1区のホテル・ムーリスで心不全のため95年の生涯を閉じました。