英検1級信仰
英検(正式には実用英語技能検定という)は現在1級(最上級)から準1級、2級、準2級、3級、4級、5級までの7等級があるが、発足当初は1級、2級、3級の3グレードだけであった。その最上級の1級に合格するのは「英語マニア」とか帰国子女のような特別な人たちであるとさえいわれる。
英検が発足した最初の1963年に私は2級を受験して合格した。翌年1級に挑戦したが、2次試験で不合格。しかし、1次試験には合格していたので、再挑戦には苦手なリスニングに集中して自主トレした結果、「運よく」合格できた。それは1964年の東京オリンピック直後のことであった。
その後二十数年たってから、ある理由でまた1級に挑戦し、数度の不合格を経て、50代半ばを過ぎて合格したのだが、そのことについては後述しよう。
以下に、それ以前からの「カメ」のようなのろい歩みについて振り返ってみたい。私のような才能にも経済的にも恵まれない凡人の「努力の足跡」、否、千鳥足の足跡というか、英語道に苦しんだ(?)人間の軌跡が、世の真面目な努力家の人たちに、反面教師としてでも、何らかの参考になれば幸いだが、「必死に努力しなかったことの後悔の念」をしたためておくことにも多少の価値があるだろうと思うのである。
才能とは努力をなんとも苦にしないで一つのことを継続できる能力、または「努力」を楽しめる資質を言うのであろう。私はその意味で失格である。一つのことではなく、あれもこれも、英語もフランス語も、イタリア語も、さらにそのほかにスペイン語もかじってみたのだが、日本文学も楽しみたいし、また娯楽では、たとえば将棋も強くなりたい、などなど願望ばかりが先だってしまう性格で、「努力」を継続できない性格であった。
「私、英検1級持っている」と言うと「すげーっ」と感嘆されるほど英検1級に対する信仰のような風潮さえ日本にはあるようだ。しかし、その英検1級に、20代と50代後半の2度合格した私の経験から考えると、とても崇拝されるほどのことではないし、私自身いまだに英語を使う羽目になると逃げだしたい気分になる。
実際、私が1回目に合格したのは「運が良かった」からかもしれない。初めて受験した1回目の2次試験ではスピーキングで難しい主題を選んでしまって、「あ~う~」と苦吟、あまり話せなかったので、不合格。その半年後の再試験のスピーキングでは「日本人の食生活」という題目を選び、苦手なリスニングの試験には「運良く」(1964年の)東京オリンピック関連の話題が出たので、「勘を働かせて」なんとか、多分スレスレの合格点を稼げたようだった。