他のスタッフに口に出して言ったことはないが細井洋介は松野の気に入りの社員の一人だった。洋介は松野のことを“社長”と呼び、自分は社長じゃないからそんな呼び名は止めてくれと言っても時々そう呼ぶのを止めなかった。
忠司たちは彼の主宰するインターネットメディアの記事のレイアウトを担当するデザイナーを探していて、グループのHPに広告を出した。
応募者の作品をネットで審査し、三人に絞る。三人には直接面接した。
細井洋介は東京郊外にキャンパスのある美大のデザイン学科を出ていた。本当は画家になりたかったが、絵で食べて行けるほどの才能はないと分かってCGデザイナーを目指したという。持参のスケッチブックを見ると絵はうまかった。松野は迷った挙句に結局初任給をやや低めに設定して、全く違った傾向の若者二人を雇うことにした。
洋介は文化情報と動画を使った時事解説のページのレイアウトを担当している。同時に雇ったもう一人のデザイナーはデジタル紙面のマスコットやキャラクター、新規のEMOJI(これはもう世界共通語になっている)を制作している。
働き出すと彼の長所と一緒に短所も見えてきた。仕事は器用にこなすし仕上げもきれいだが、与えられた仕事以上に何かを自分からやろうという気力がない。責任を持たされるのはどちらかというと苦手である。
毎日つつがなく暮らせて適度に贅沢が出来て、適度に人生を楽しめれば言うことはない。要するに当世風の若者である。松野がこの若者に好感を持ったのは、取り立てて何と言うこともない。ただ温かくておっとりとした性格であることだが、それは同時に欠点でもあった。何かのきっかけでもない限りこの若者に現状打破の闘争心を期待するのは無理なようである。今は小さな欠点かも知れないが、長い目で見るとかなり致命的な欠陥になる可能性もある。
松野は問題の病院事務長の死にまつわる新聞記事をアーカイブで検索した。
疑惑の病院事務長、行方不明(二〇一八年三月十六日付けM新聞より抜粋)
西茂原市の榊原病院事務長、山本哲也容疑者(四十二)が三月十五日夕方から行方不明になり警察が捜索しているが発見出来ていない。山本容疑者は病院と取引のある薬品会社の書類を偽造し、実際には使っていない鎮痛剤を発注したかのように見せかけて患者のカルテを大量に改ざんし、売上金を騙し取った疑いが掛けられており、警察や健康保険組合から近々事情を聴取される予定だった。
なおこの件に関して病院の榊原賢一郎院長は何も知らなかったと述べている。事務長を信頼していたのでカルテや経理をチェックしなかったと述べているが、監督不行き届きで健康保険組合から保険金の返還を求められている。病院は保険金詐取に遭った件で山本事務長を相手取って被害届を出した。
榊原病院事件続き・事務長、死体で発見(同年三月二十二日付け)
失踪していた西茂原市の榊原病院の事務長、山本哲也容疑者の遺体は玉川上水の上流、西大和貯水池の水止めの鉄柵に引っ掛かっているところを発見された。死後一週間経っており後頭部にかなり強く頭を打ったらしい裂傷があった。山本容疑者は遺書を残しており警察は自殺との見方に傾いている。
なお不正取引のあった保険金は同病院と健康保険金組合で話し合って返還の手続きに入るとのことだが、不正は足掛け三年間にわたっており、不正に請求された診療費の患者への返還もあり、時間が掛かりそうである。不正に詐取された金の一部は行方不明で警察は山本容疑者の自宅その他を捜査中である。