戦後
終戦後復員で沸く家庭が目に付く中、ミヤコは仏壇と神棚に好高の無事帰還を一心不乱に祈るも、役場から何の音沙汰もなく一日一日が過ぎていく。昭和二一年正月隣町のニューギニア従軍兵が復員している噂を聞き三日私を背に二里の道を訪ねる。その戦友から「本当に言い難いんだけど好高さんは亡くなりました」と聞き茫然自失、帰りの道をどのように帰ってきたか全く覚えていなかったと言う。
後日役場から遺骨箱が届き、抱きかかえ仏壇に運ぼうとしたところコトッと音がする。アッ好高が帰って来たとすぐさま座敷に座り箱を開けると、白木のお位牌が一つ、位牌箱を抱きしめ涙があふれて止まらなかった。
昭和二〇年七月二九日 ニューギニア メウイで戦死
衛生兵曹長 勲七等 今井 好高 享年三二歳
当時の我が家は納屋を改造したあばら家であったがお位牌だけは立派で母も
「火事の時は何も持ち出さなくてよい。お位牌だけは持ち出せよ」
と言っていた。在職中、全く興味のなかった我が家系もそのお位牌とお墓を調べてみると、我が家の過去のドラマが浮かび上がり興味深いものがあった。
我が家の初代は、今井喜平次宝暦四(一七五四)年没妙法霊鷲院宗運信士、妻妙法霊鷲院好運信女文化三(一八〇六)年没。夫没後五二年間を寡婦として暮らしている。喜平次はせいぜい三〇歳までの命かと思われる。役場に勤務の方によってその喜平次の名前が地区の守り神の和霊神社の入口の高さ四mの燈明台に、世話人として刻印されている事が判った。
ところが喜平次とその妻のお墓は我が墓地にあるがお位牌が無い。ちょっとしたドラマがあるようだ。
三代目為治文化一〇(一八一三)年二七歳没。同じ年に二代目武助の妻没、翌年為治の倅五歳で没と悲運は続く。四代目嘉兵衛妙法全運院宗運信士は長寿。明治八(一八七五)年七三歳没(好高の母コウ明治二年生まれによれば精糖業営む)。同妻レイ妙法隋法院妙運信女明治二四(一八九一)年没(粟井村今田兵六の娘五代目喜平を三九歳で出産)。さらに五代目喜平の妻サタは明治八年二七歳没(関谷横内善右衛門の娘)。六代目忠治明治三〇年三二歳没。七代目好高三二歳と立て続けに若死にし、貧窮のどん底に陥ったことが分かった。
各時代の平均寿命は江戸三〇~四〇、明治四三、大正四六と短命とは言え先祖の半数が平均寿命以下。将に禍福はあざなえる縄のごとしである。ところで祖母のコウが言い伝えたと言う当時の精糖業について調べてみた。