実は、英会話学校に通い始めるときには、もうすでにアメリカへ行くための資金をこつこつと貯めていたのだった。郵便配達を皮切りに、ホームセンター、定食屋、家庭教師、塾、そして、最後の四回生のときには、外国人観光客が多く宿泊する旅館のフロントもした。週に三つから四つのアルバイトをかけもつこともあった。
京都の碁盤の目の通りを縦横無尽に原付バイクで走り回った。遠くへは、バスや電車も使った。鴨川を一日に何度往き来したか。バイト先で、同僚やパートのおばちゃんに自分の夢を語ったこともあった。夢を語るたびに、応援してもらった。家庭教師の派遣会社を経営していた中年の女社長は、「がんばりや。」と言って、少し給料を上げてくれた。
ビリヤードをしながら二時間も三時間も話を聞いてくれたどこかのお兄さんやお姉さんもいた。バイト先の旅館で出会った宿泊客で、「自分はフォルクスワーゲンに荷物を詰め込み、日本全国を旅している。」と言って、その車に乗せてくれて、岡山倉敷まで夢の話を聞いてくれた人もあった。
「あの人は今、どこで何をしているのだろうか。また会いたいな。」とときどき思うことがある。
大学を卒業して、ある団体の国際交流プログラムに参加した。その団体は、インターナショナル・インターンシップ・プログラムス(IIP) といって、アメリカの学校を紹介してくれて、そこで日本語や日本の文化を伝える活動をするものだった。当時、日本はバブルがはじける前の好景気で、空前の買い手市場だったため、学生の就職先は引く手数多だった。
「いつでも、どこでも就職はできるだろう」という、全く前途を心配しない、余裕のアメリカ渡航だった。
「帰国したら、どこかの仕事につけるだろう。」という気持ちだったのだ。
その団体が準備している、日本語や日本の文化を伝える技能を学ぶコースに参加し、半年前から親を説得し、少しずつ身辺整理を進めた。
出発前夜、実家近くの寿司屋で、両親は、「せっかく決めたことは、最後まで諦めずに成し遂げなさい」と言った。寿司を口に頬張りながら、その言葉に緊張させられた。あの時の寿司の味は、今でも忘れていない。