予定の時間に駅まで迎えに行った。彼は2週間前と同じ格好で改札口で待ってくれていた。少し緊張したような表情だった。いつかどこかでこんな表情を見たことを思い出した。阪急淡路駅の東改札口だ。高校を卒業しても私には進路が決まっていなかった。

3年間遊んでばかりいたので、受験も就職も全て失敗した。アルバイトで診療所の補助をしていた私に院長先生は看護学校を勧めてくれた。

1年目は見習いをし、2年目で看護学校に行かせてもらった。准看護師の資格を取り、すぐに正看護師の学校に進学した。卒業するまで院長夫妻は私を実の娘のように可愛がってくださった。

看護学生であった4年間は彼の記憶がはっきりしない。

国家試験が終わり、大手の救急病院に就職した。自宅から遠かったので、私は病院から電車で20分程の便利な場所にアパートを借りた。現在ではマンションを借りる場合、敷金・礼金なしで簡単に借りられるが当時はアパートを借りるだけでも数十万円のお金が掛かった。それは両親から借り、月々の給料から返済していた。

私はそんな経験から持ち家や不動産に対してより執着するようになった。いつか自分の「家」を持つことを心に決めていた。

阪急淡路のアパートで一人暮らしが始まった。親から離れ、一人暮らしの楽しさや解放感は今の時代も同じかもしれない。私は友人を通じて彼に何とか連絡を取った。そして、彼を私のアパートに招いた。最寄りの駅まで迎えに行く。ちょうど今日と同じだ。

彼はすでに社会人で会社では一目置かれた存在だったようだ。阪急淡路駅に来た彼は細身できっちりしたスーツ姿で本当にカッコよかった。多分、女の子には不自由していなかったろう。久々の再会で私たちはすぐに第3段階に進んだ。彼にとってはそれが日常茶飯事だったのだろう。女が求めればSEXしてあげるのが「モテる男」の務めくらいに思っていたのだろう。

彼は何度か私のアパートを訪ねてくれた。たまに泊まってくれたこともあった。料理と言えば目玉焼きくらいしか出来ない私に彼は何も言わなかった。私は第3段階で女性としての悦びがあったかというと、そうではなかった。不感症という訳ではなかったが、親に内緒でSEXしているという罪の意識を常に感じていた。

ある時、彼は酔った勢いで同僚をアパートに連れてきた。三人でHをしようと言い、何故か彼と同僚は盛り上がっていた。彼は仕事でストレスを抱えていたのは何となく知っていたが、その捌はけ口が私なのか、私は都合の良い女でただの遊び女なのだということを自覚しない訳にはいかなかった。

再会してもう一度愛し合っていると思っていたのは私の錯覚だったのだ。

彼の同僚が私にキスを仕掛けてきた時に、「俺のことりや、したらあかん」と言ってくれたが、私はもう白けていた。翌週、私はそのアパートを引き払い親元に戻った。相原自動車教習所(大人への階段)は第3段階で中退した。

第4段階に進むことは出来なかった。第4段階って何だろう。妊娠か。結婚か。悲しい記憶が蘇った。この時のことが37年前のはずだ。私は、別れた時の記憶がはっきりしていると思い込んでいた。じゃあ、彼が言った「お前が婦長(師長)になったら会ってやる」というのはいつだったのだろう。

彼の記憶がない空白の4年間での出来事だったのだろうか。

【前回の記事を読む】「高校生のお前とは違うねん」18歳の冬に迎えた最初の破局