摺師の地位は、彫師の下職で錦絵諸職人の中で、位が一番下だったが、幸枝は違った。
大久保巨川はいつも幸枝のことを、
「あれがいるから、春信も仕事ができるンじゃ。彼奴が最後に『よござんしょう』と言えば、それで終わりさ。文句を言う奴はいない。もうそれ以上にはならないンだ。摺は最後だからな」
と大事に扱っていた。
朝の、金色の光が、張りを失ってきた。春信は相変わらず酒を飲んでいた。春信は色が白い。その細い指で盃を運んでいた。斜めの光の中に、酒を口に含んで、何か見えないものを一生懸命見ているような顔だった。時々、突然、左に首を傾げて、右上を見る。そうなると誰が話しかけても駄目だった。
ちょっとの間だが、長く感じられた。それが終わると納得したようにニコリとした。
春信は白茶や明るい色の紬を好んだ。足袋はいつでも白だった。
“勉強、我慢、大和絵師はその覚悟がなければなりません”
聞けば必ずそう答えた。
松七郎は、
「春信様、今日、これからいかがなさいます?」
と腕を組んでいる春信に聞いた。
春信は優しそうな顔で、
「金兵衛さんと八幡様で待ち合わせです。富岡八幡様と二軒茶屋を写します」
と答えた。
「へえ、伊勢屋さんと松本さん?」
松七郎は聞いた。
「ええ、その料亭を写してくれと、これも絵本の仕事で」
鈴木春信はこの半年、来年春に出す絵本のために、絵筆片手に江戸市中を写生していた。
「それから駿河町の越後屋さんに寄って帰ります」
と何故か首を竦めた。
「三井様のお仕事もお忙しゅう御座いましょう?」
松七郎は、忙しい春信の立場に同情した。
春信は頷いて利休鼠の羽織を手にして、立ち上がった。朝の蛤料理を作ってくれた、元漁師の宗五郎が、日向の畳の縁側で、枯れそうになった釣り忍を手入れしながら、
「若様、これから江戸にお帰りなさるかエ!」
と二人に声をかけた。