実際に我々の場合、本来はメーカーと客の立場である。にも拘わらず兄貴は商売の損得、打算の心など微塵もなく、たった一度のお付き合いとなるかもしれない私に対して相手の人となりを知り合った以上、一期一会の人間として誠意と敬意をもって接してくれる人であったのだ。それは人徳以外の何物でもない。

フグ割烹を出たあと、我々は旧知の友のように意気投合して都町を飲み歩いた。そして、夜半過ぎに「腹減った、旨いラーメンを出す居酒屋がある」と案内されてその居酒屋に入った。すると先に入っていた若者は皆兄貴に挨拶をするではないか。この街で兄貴は若者までが知る余程の有名人であったようだ。

店ではラーメンだけでは申し訳ないと理由をつけて我々が昔よく飲んでいたハイボールを頼み飲み始めたが兄貴は、今日は実に愉快だと言いながら昔聞いたことがあったような、またどこの国の歌なのかわらない「ジンジロゲ」なる奇妙な歌を唄いだした。

私もお返しに、この歌は誰も知らないであろうと前置きしながら私の祖母から教わった明治の野球の歌、「赤きキャップに白のシャツ、肩にはバット手にミット、いざいざ勝負を争わん山をば倒さん大フライ、ファーストベースセイフ、セコンドベース……」と唄ってお返しをすると、この夜中に七十過ぎの爺さん方が唄う奇妙な歌に大分の若者たちはあっけに取られていたようであった。

ちなみに私の祖母は「たきび」を詠った童謡歌人巽聖歌の姉であり、岩手から日野市に住んでいた弟から、東京ではやっているハイカラな歌として聞いたその歌を孫である私たちに唄い聞かせてくれていたのでよく覚えていた。今や、日本に野球が伝わった黎明期のこの歌を知っている人はもう居ないであろう。

帰京して数年経ったある日、突然訃報が届けられた。連絡してくれたのはあの同期の岡本からであった。大分の地方紙に、本人の遺志により報ずるのが憚られるとしながら兄貴の訃報が小さく載っていたとのことであった。

満州から生き永らえ、終戦後目いっぱい働き、人に対しては溢れんばかりの誠意と人情を示してくれた兄貴らしく、騒ぎ立てることなく、目立たず、スーッとこの世から身を引いて逝ったのだ。私は満天に広がる星の一つがまた落ちたのを知った。