「だがなあ石原、広田のあとの総理候補には、宇垣一成の名前が挙がっているらしいぞ」
町尻大佐は石原と士官学校が同期なので、ごく打ち解けた口調で話し続けている。
「ああ、それは俺も耳にしている。宇垣大将は、昨年の八月に朝鮮総督を辞めて内地へ戻ってから、首相の座を狙っていろいろと工作を続けているからな」
「では、いよいよ大命降下だな」
「宮中もその意向らしい。内閣総辞職となれば宇垣さんが選ばれるのは、ほぼ間違いないだろう」
石原は感情を表に現わさず、落ちつき払った態度だった。満州事変を企画、演出した水際立った手腕や、去年の二・二六事件を終結させた際の迅速な行動力は、いまは影をひそめているが、その鋭い眼光からは抑え難い気力が溢れ出ていた。
「しかし、それでいいのか。貴様は宇垣内閣の成立を手をこまねいて見ているつもりか?」
町尻は畳みかけて言う。
「まあそうムキになるな。ここはいうなれば正念場だ」
石原は軽く受け止めて続けた。
「昨年の秋に策定した『軍備充実計画大綱』がようやく動き出したばかりだからな。とにかく、昭和十六年までの五年間に軍備を飛躍的に向上させて、現状のソビエト連邦の三分の一という劣勢を回復させることは、絶対の急務だ」
「それはわかっている。だから、陸相のときに二回も軍備縮小をやった宇垣は、いまの現状に不適任だと言ってるんだ」
だが石原は、町尻の言葉にそのまま同調しなかった。
「まあ待て。そう簡単に片づけるな。当時の宇垣軍縮は、いわば時代の要請でもあり、また兵員を削減した予算は、そのまま軍の近代化に充当されていた。だから俺は、宇垣さんが必ずしも軍備増強に反対するとは思っていないよ」
「それじゃ、宇垣内閣の成立を認めるつもりか?」
「いや、俺はやはり反対だな」
「では、理由は何だ?」
町尻の問いかけに、石原は少し考えて言った。
「これからの五年間、軍備充実計画を何としても成し遂げにゃならん。そのためには強力な推進力が必要だ。だから、この政変をきっかけに、陸軍大臣に板垣さんを持ってこようと考えているんだ」
「なるほど。満州事変の盟友だからな。それで総理は誰が望ましい?」
「やはり林銑十郎大将だろうな」
「うーむ。やはりその線か」
町尻は大きくうなずいた。