「何やっているんだ、貴様!」
今度はバシッという音がして、万年筆は上着から取り出された時と同じように青く輝きながら、用水路に飛び込んでいった。一瞬、何が起きたか分からないまま結愛が顔を上げると、そこには竹刀を手にしたワオが結愛の前に立っていた。結愛がワオの足の間から見ると、行彦が座り込んで無様にひい、と声を上げながら後ずさりしている。
「俺は結愛の婚約者だ。二度と結愛に近づくんじゃねえぞ!」
ワオはこれまで結愛が聞いたことのない大声でそう言うと、見事な面を行彦の眉間に決めた。わひゃああ、と情けない声を響かせて、行彦は四つん這いのまま退散していった。
「大丈夫ですか」
瞳を潤ませて、ワオは結愛を見つめ、抱き起こした。
「怖かった、怖かった、怖かった」
十分しゃべれない結愛に肩を貸して、とにかく家に入りましょう、とワオは結愛をマンションまで連れて行った。
「ワオさん、竹刀なんてなぜ?」
ワオの入れたジンジャーレモネードを飲んで少し落ち着いた結愛は、ワオに問いかけた。
「実は、学生時代からずっと剣道をやっているので、お菓子のレッスン前に道場に寄ってきたところだったんです。いつもは水曜日に通っているんですけど、今日は特別で」
照れくさそうに言うワオは眼鏡の奥の目を丸めて、張り出した耳を赤くし、いつもの小さな猿の雰囲気に戻っている。
「意外ね」
結愛はこれまで、ワオを男性として見たことはなかった。男性は怖い。行彦のように、嫉妬深く、しつこく、どこで怒るか分からない。そう思っていた。そして、それは今日の出来事でより一層強く裏付けられたではないか。
「ワオさん、あの時初めて男性に見えた」
「それまで俺は何だったんですか」
やっと結愛に笑いが戻ってきた。
「ねえ、もう一つ教えてもらっていい?」
何ですか、と言うワオの袖を結愛は引いた。
「どうして婚約者だって言ったの」
ワオは一瞬目を逸らし、また結愛に視線を戻して答えた。
「そうなればいいなって思ったから」