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板一枚が海底の怖ろしい地獄である、長い長い遠洋航海の中途で、久方振の陸地を踏む位、嬉しいことはない。
故國を離れて丁度、十一日目であつたかと思ふ、それは寒い寒い一月上旬であつたが、旣に横濱を出帆して八日目頃から、天洋丸のAデツキには水泳場が設けられ、今迄重々しい毛織の洋服を着けてゐた、幾百の船客が、冬から夏に飛び變り、トランクやスーツケースの底から、ひらひらした白ツぽい夏服を出して、デッキの上を輕快に散策してゐる。
金靑色に燦爛と輝いてゐる布哇の島嶼が、夢のように靜かに浮んでゐる、近くに見ゆるホノルヽ港は、今しも綠に包まれた內から、赤、靑、白等の美しい西洋建築が、きらきら燦めく金色の海面に五色の色を染めてゐる、其の背景の火山性の赤い禿げ山が、强烈な赫々たる光線を反射してゐる。
周圍の美しい海面には、小さい鱶が四五匹も浮き上つて、金碧色の水面に蒼黑い背胛を見せてゐる、遠くの方には鯨が水を吹いてゐるのも見ゆる、そうしてなんとなく南國の海らしい氣分に浸潤される。
愈々船が停ると直ちに白い船に、黄色の檢疫旗と米國の國旗を立てた小さいガソリンボートが二艘やツて來る、船客一同はデツキの上に整列させられ、形式だけの健康診斷が濟んで再び船體は搖ぎ出して港內に入る、其の港內に入らんとするや船體の周圍に拾數人の布哇土人が泳ぎ廻りながら、頻りにデツキ上の船客に向つて『錢を吳れ吳れ』と叫ぶ、そして船客の各々が旅の慰めに、銀貨や銅貨を海面に投げてやると、水中にもぐり込んで間違なくそれを拾つて來る、其の態は、さすが異國らしい奇觀を感ぜしむる。
昨日まで船底の穢苦しい薄暗い室に、細帯姿の怪しげな風體をしてゐた布哇行き婦人(重に寫眞結婚連)は、忽ち變じて今朝よりはお化粧に飾られた花嫁姿と化し小さい胸を躍らせながら、自分の氣に合つた寫眞の夫が船渠上の數百の出迎人中にゐるかと、デツキ上の人垣から嬉しいやら恥しいやらで、身慄ひしながら群衆を眺めてゐる。