【前回の記事を読む】水中の映像にも責任を持つため…死ぬ想いで習得した潜水技術
誰も見たことがないドラマティックな映像を求めて
1970年代に入ると大気汚染や自動車事故など科学技術社会の負の部分が目立つようになり「あすをひらく」は「あすへの記録」に看板を掛け変えた。
と言っても私個人は「社会的な出来事を科学の視点で考察する番組」という信念は不変であった。
それは科学報道番組のような色彩を持っていた。そのせいか旅客機の墜落などの大きな事件が起きると報道局からしばしば応援を頼まれるようになった。
入局7年目にはこんなこともあった。報道局の社会番組部が企画した秋分の日特集で本物のSLを北海道の狩勝峠から谷底に落とす「脱線の謎に挑む」という大番組のPD集団に加わるよう、頭をさげてお願いされた。
29歳の若輩だったのにである。
科学(論理)的番組の制作経験者が誰もいないからというのがその理由だったのだろう。