吾輩は犬である。名前はまだない。

と言いたいところだが、名前はもうある。

「マックス」という名前だ。

明治時代の文豪・夏目漱石の名作『吾輩は猫である』のことは重々承知している。

しかしながら、漱石氏が生きていた明治時代からすでに百年以上が過ぎ去っている。

そして、その当時にはなかった自動車、テレビ、電話、航空機、宇宙ロケット、スマホ、インターネットなどが出現し、人間が住む世界は明治時代とは別世界、いや異次元の様相である。

漱石氏が没してから二十九年後の昭和二十年に日本は原子爆弾が二個投下されて太平洋戦争に負け、ソビエト連邦、共産中国などの社会主義国が誕生し、東西ドイツ分断とその後の統一、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、ソビエト連邦の崩壊など国際情勢も著しく変化した。

そこで、人間とともに室内犬として生活している吾輩の視点から世相を観察し、感想を述べていくのもあながち無意味ではあるまいと思った。

漱石氏の了解なしに氏の名作の書名に(ちな)んだことは少々後ろめたいが、天国にいる漱石氏の寛大なる心にご容赦いただいて、読者諸氏が吾輩とともに現代の世相を一緒に考えていただければ幸いである。

さて、吾輩の名前である「マックス」に話を戻そう。

この名前は、この家の小学四年生の息子がつけた名前である。

その息子によると、彼の愛読書であるコミックブック(漫画本)に水中生物であるイカの「マックス」という名前のキャラクターが出てくるそうで、その名前を拝借して吾輩の名前にしたらしい。

犬に向かってイカの名前をつけるなんて誠に無礼な話だと思うが、吾輩にとって名前なんぞはどうでもいいので気にしていない。

ポチでもいいし、シロでもいい。はたまたミケでもタマでもいい。

飼い主の好きなように呼んでくれればいいだけの話だ。

しかし、小学四年生の息子が「イカのマックスの名前をつけたい!」と言いだした時に、この家のご主人と奥さんが「それは名案だ!」と大喜びではしゃぎながら合いの手を打った時は少々大人気(おとなげ)ない気がした。

いくら子煩悩(こぼんのう)とはいっても少々度を越してはいないだろうか?

幼少時から子供には物の道理、分別を教えるべきだと思うのだがいかがだろうか?