“深川は蚊帳をまくるとすぐに船”
掘割の水が、満月の光を受け銀色に光り輝いていた。
(満月、十五日か!)
巨川も松七郎も思わず月を見上げた。
周りの黒と、銀の水面、生まれて初めて見た色の取り合わせだった。
「美しい!」
大久保は静かに言った。
松七郎もそう答えて、二人は目を合わせた。
そして、長い間立ち尽くした。
“深川は美しい‼”
二人は一瞬、深川だけの色の世界に溶けたように感じた。
「お! それではな」
と、大久保が気を取り直して言った。
「お気を付けて、巨川様」
松七郎が頭を下げた。
銀色に輝く水面を船と船頭、巨川の二人の黒い影が、音もなく動いていった。
(深川は、何て美しいンだろう!)
松七郎は、まだ、身動きできなかった。
旗本の知恵
宴会が終わって、松七郎は離れの床に就くと、竹を網代に編んだ天井を見ながら、今日の大久保巨川の話を思い出した。
それは、舟を待つ間のことだった。
「いいか、若!」
巨川の細い目が鋭くなった。
「はい」
「入銀物の摺り物を作る時はナ、先ずその拵える目的をはっきりさせることじゃ。何となく、が一番いけない。今回のは、ええーと、何と言ったかあの紙屋は?」
「東海屋で御座います」
巨川は頷いた。
「そうじゃ。暦を作って、東海屋の奉書紙が、白くて丈夫だということを知らせるためだろう」
「左様で御座います」
「何しろ奉書紙の値は高い。美濃半紙の四十倍の値段だからナ!」
「良くご存じで」
巨川はにっこりと笑った、細い目が線のようになった。
「大倉屋の紙問屋の東海屋が金を出す。金を出す以上は、暦を手にする者たちに東海屋の奉書紙が高くとも、白く、丈夫で、それだけの価値があるのだということを知ってもらわねばならぬナ」
「はい」
「それが暦を作る目的だと、しっかりと職人に伝えなければいけない」
松七郎は頷いた。
「いいか、錦絵は皆で拵える物じゃ。絵師一人で描く物ではないンだ。下絵があり、彫があり摺りがある。皆で拵える。だから皆に目的をはっきりと示さねばならぬ。まあ、天才の源内先生は別じゃが」
大久保は首を傾げて言った。
「分かりました」
松七郎は答えた。