一部 世代 of 孝悌

二〇〇三年 孝一@アパート

荒れ狂う灰色の大海原が山腹に暴風を叩きつける。地吹雪が舞い踊る。怒涛の海岸に太い声が響いた。

「ぼっちゃん」

孝一は夢から引き戻されたことに気がついた。残業で疲れ果て、玄関の内側に倒れ込んだことを思い出した。薄い玄関ドアの向こうで、どすのきいた声が続く。

「明日の朝、迎えに上がります」

ぼっちゃん? このアパートに? どっしりとした足音が数人分、孝一の玄関ドアの向こうで往来するのが聞こえる。

「さとくんがきてくれるの?」

幼い声が無邪気に答える。

「やったぁ」

好奇心に駆られ跳ね起き、玄関脇、台所上の窓から網戸越しに、そっと声の方向を覗く。おととい急に暑くなり開けっ放しのままだった。見るからに武闘派な男たちが隣に荷物を運び込んでいる。引越し業者には見えない。これからあいつらが隣に出入りするのか。微かに戦慄が走る。

孝一は台所に傾けていた上体を戻した。やばい。俺も引越ししよう。昨日のままの作業着を脱ぎながら、つけたままの腕時計を見ると昼を過ぎていた。今日が休みでよかった。ホッケを食って一寝したら不動産屋に行こう。間もなく「じゃ、姐さん、失礼します」という声と共に男たちが階段を下りる足音が遠ざかった。

ネエサン? 姉さんではない独特の抑揚。姐さんだ。再び好奇心が全身を占領する。テレビで観た古い映画でしか聞いたことのない言葉だ。映画では美人だった。姐さん観たい。台所の縁に右膝を乗せ体を固定し、窓の網戸に鼻を押し付けた。この角度じゃ見えるわけないか。

ホッケの開きを焼き、洗濯をしているうちに雨が降り始めた。音楽もかけず隣に聞き耳をたて続ける。姐さんは隣から出てこない。期待でときめき寝ることができない。タオルケットを跳ね除け体を起こし、ホッケをもう一枚出し今度は醤油バター焼きにした。焼いた魚の香ばしい匂いが鼻をつく。北の味はオフクロの味。

土砂降りになった頃、重量のある足音が孝一の部屋の外を通り過ぎる。隣の鍵を開けて入っていく音が続く。ノックもせず。家賃を払う男か。入って行った人間は静かだったが、入れ違いに賑やかな子どもの声が飛び出て来た。

「いつ、かえっていい?」

返事は聞こえない。子ども特有の足音が孝一の小さな網戸の向こうを横切った。愛人の隠れ家ってやつかぁ。大昔の映画みたいだ。すげえ。倫理上、喜んではいけないとほんの少し良心の声がしたが俺は日頃真面目なんだから、たまにはドラマチックなことがあってもいいじゃないかと自分を納得させた。自分に都合のいいことなら何でも簡単に呑み込むことができる。

数分後、玄関と反対側にある駐車場に、水色の傘をさした子どもを孝一はベランダから見た。土砂降りの中、ただ、ぶらついている。一人で。暗くなり始めた。雨が弱まる気配はない。母親はベランダから声をかけようと思えばできる。しかしいるはずの母親は声をかけない。

孝一は子どもの心情を思い遣った。孝一は自分があの年齢の頃、貧しいながら両親の愛情を感じていたことを思い出した。モノは無かったが会話はあった。