一部 世代 of 孝悌
二〇〇三年 孝一@アパート
次の休日、外れて動かなくなった網戸を修理するために通路に出た。隣の姐さんを見ようと何度も顔を押しつけていたら剥がれてしまった。退去に備えて少しでも敷金を取り戻せるようにしておかねば。
物音が聞こえたのか、子どもが出てきた。
「ねえねえ」
つぶらな瞳で親しげに近寄って来る。
「さっき、さとくん、みた?」
「さとくん?」
さとくんという名前を知っていると悟られてはいけない。このドアの内側で姐さんがこの会話を聞いているかもしれない。
「さとくんて、さっき階段を下りて行った人?」
こんな子どもが、大の大人をクン? 上下関係が厳しそうな世界なのに。ということはよっぽど上のヤツが家賃払ってるってことか? いや、そんな親分なら愛人にはマンションを買うんじゃないか? 映画ではそうだった。
「うん」
子どもは長いまつげを上下させた。
「このゆびがないひと」
自分の小指を右手で差した。
「え?」
こんな身近に、ドラマでしか知らない世界があるのか? いや、思い込みは厳禁。
「怪我したの?」
事故かもしれない。
「ううん。さとくんね、えいくんがいないときに、ママのとこにきたんだ」
園児は長い眉をひそめた。
「それはわるいことだから、えいくんが、ばつだって」
ひそめながらも無邪気に話す様子は、幼稚園でカブトムシを見つけたよ、と報告しているようだった。
「えいくんが」
孝一はそっと呼吸を整えた。
「ボクのパパ?」
「ううん。えいくんはね、ぼくがにゅういんしたときにね、おかねをぜんぶ、はらってくれたんだよ。だからママのともだちになったんだ」
そういうことか。
「ボクのパパはどこにいるの?」
「けえむしょ、おそらにあるくものうえ」
あどけない仕草で両腕を上に伸ばす。
「刑務所? 空?」
「うん。えいくんがね、そういった。ママがね、おそらにあるくものうえって。おそらがきれいなあおのときにある、いちばんおおきなくものうえにいるんだ」
土砂降りの中に一人でいた子どもを余計に哀れに思った。猛暑でも雪が降っても、親分が来れば、この子は外に出されるのか?
母親失格。ろくでもない女だ。子どもに罪はないのに。母親のくせに! 孝一は無慈悲、無責任な「姐さん」に腹が立ってきた。
そしてかつて深く愛した二人が幸せな家庭を築いていることを想像し、寂しくなった。ずっと昔、恋に落ちた。目の前にいるその女性の何も知らず。ただ愛し合った。