二〇〇三年当時の北アイルランドは、紛争が政治上終わってから、わずか五年しか()っていなかった。日本では、治安の悪い場所というイメージが先行していた。私は家族や、日本の知人から「健は、何故北アイルランドみたいな治安の悪い地域にペンフレンドを募集したの」と、よく聞かれた。

私は、平和ぼけしていた何不自由ない自分に、罪悪感と嫌悪(けんお)感を覚えていたのだ。心身は()んでいたが、経済的には何一つ不自由はなかった。周囲の無理解な人たちに「世界中には食べる物に困って、栄養失調で死んでいく人たちがいる。お前は食えるのだから幸せ者だよ!」と、私のお腹を見ながら、言われることがよくあった。

私は服用していた薬の副作用で過食障害になり、二十歳の時、五十九キログラムだった体重が、この頃八十キログラムを超えていた。私は悔しかったが、何も言い返す言葉がなかった。いっそのこと、死にたいとまで思い詰めるようになっていた。

そんな時に知り合ったのが、ロバート・ハミルトンだった。自分とは全く違う人生を歩み、身近な親しい兄を殺され、地獄のような日々を送ってきた彼との巡り合いは、私の人生を大きく変えた。誰かに何かをしてあげたいという気持ちを芽生えさせてくれた恩人がいたが、その人に再会したような喜びだった。文通を通して、若くして彼が死を見つめている姿が鮮明になっていった。

三島(みしま)由紀夫(ゆきお)の自殺のことまで手紙で言及し、天寿(てんじゅ)を全うできない死は悲惨だということを、彼はお兄さんの話を通してしてくれた。お兄さんの死後、彼は、立て続けに愛する家族を失ってきた。

長兄チャールズの死後、次男、父と後を追うように病死していった。残されたのは、年老いた最愛の母と、姉二人と彼であった。私は自分が恥ずかしくなったと同時に、生きるって何だろう、死ぬってどういうことなのだろうと、考えずにはいられなくなった。