義の心
孟子が何よりも多くの時間をさいて勉強したのが、百年前に孔子が弟子たちに説いた「仁」の教えでした。孟子は、孔子の「仁」の教えを学び、そのすばらしさに引きつけられました。孟子が生きていた時代も、孔子と同じく戦争がやまない不幸な時代でした。
孟子は孔子の教えを学びながら、孔子と同じ確信を持ちました。仁の深い思いやりの心を身につけることで徳が磨かれ、立派な人徳者になることができる。たとえば王様も、仁の心を磨き、深い愛情を持つことができれば、自然とそのような優しい王様に敵対する人もいなくなり、みんなが平和な心を持ち、争いや戦争もなくなっていくはずだ。孟子もまた孔子と同じように、そう確信したのです。
孔子の残した教えを学べば学ぶほど、その確信が深まっていきました。そして、孔子を我が心の師匠と仰ぎ、仁の教えをより深く学び、さらに徳を高める方法を探究することにしたのです。
孟子は人として正しい心を持つこと、すなわち正義感について考えていました。人徳者には、思いやりの心とともに、正義感があるはずだと考えたのです。正義感とは、悪と正反対にある人としての正しい心のこと。ではそのような心とはどうあるべきか。人として正しい行いとはどういう行いのことを指すのか。孟子は身近なところから正義を見出そうとしました。
友達との約束を守る。人から助けてもらったら、その恩返しをする。そのような義理がたい気持ちを持つことが、人としての正しさの基本なのではないかと思い至りました。そして困っている人や、弱っている人を見かけたら、助けてあげる。そのような人情もまた、人としての大切な心だと考えました。道端にゴミを見つけたら拾う。そのような日常生活の、ささいな行いの中にも、人としての大切な正義感を見出したのでした。このような人としての正しさをひとことで言い表すと、それは「義」であると悟りました。
孟子は弟子たちに話しました。「たとえば、子供が井戸に落ちそうになっているのを見たら、誰しも助けようという気持ちになるものです。それは誰かに教わって、そのような気持ちになるわけではありません。子供を助けたことをきっかけに、その子供の両親と親しくなるために助けるわけでもありません。誰かに褒めてもらおうとして助けるわけでもありません。
もし井戸に落ちていくのを助けずにだまって見ていたとして、そのような冷たい態度を人から責められるのが嫌だから助けるというものでもないのです。人として正しい行いをすることは、持って生まれた人の自然な本能なのです。自然に湧き上がってくる善良な気持ちなのです」
弟子は続けて孟子に聞きました。「徳のある立派な人には、何より勇気が必要だと思うのですが、先生はどのように考えますでしょうか」
孟子は答えました。
「師である孔子は、私たちに次のように教えてくださっています。徳のある人は、もちろん勇気があるものです。しかしそれ以上に、人として正しいことを行うことを大事に考えているものです。人として正しいことをしなければならない時に、そうしないのは、その方が勇気のないことです。人徳者といえども、勇気だけあって、人として正しいことができなければ、争いごとを引き起こすことになるものです。
また、勇気だけは一人前でも、人として正しい気持ちがなければ、泥棒にすらなってしまうかもしれないのです。それほどまでに、人としての正しさを身につけることや、その正しさを実行することが、大切なのです」