クリスマスが近づく12月のお菓子教室は、季節外れの暖かい日差しが入り込み、この世の苦界とは無縁の様相を呈していた。
「ねえ、先生、今日の約束覚えてますよね」
生徒が片づけを終え、この後お決まりのお茶に行こうと誘い合っている中、先程の外科医、池添麻里那がいたずらっぽい笑みのまま、わざとらしい小声で近づいてきた。
「も、もちろん。私も仕事でステップアップしたいし……」
「場所は恵比寿。駅からすぐです」
手にしたエプロンを畳み損ねた結愛の狼狽を見ないようにして言葉を重ねた麻里那は、同業の彼氏の留学を機に、捨てられたばかりらしい。
結愛がこのお菓子教室を始めてからの一番付き合いの長い生徒で、忙しい中もしっかり通ってくれる。結愛も真面目だが、麻里那も真面目で凝り性で、次回のお菓子の予習も、前回のお菓子の復習もして、写真を送ってくるのに結愛は驚かされている。フランスのアンティーク人形のような顔立ちの麻里那が、フランスに留学していた頃に結愛が覚えたお菓子を作るのは、出来過ぎなほど美しい。
そんな麻里那が異業種交流会に結愛を誘ったのは、前回のお菓子教室の始まる前のことだった。麻里那と個人的にやりとりをしている結愛に対し、わざわざメールではなく口頭で誘うからには、その前の「彼が勝手に留学に行って連絡が取れない」ということを聞いてほしかったからだろうと結愛は悟った。
合コンのような軽いものではなく、独身の様々な業種の者が集まって、テーブルを移動しながらビジネスチャンスを探し、あわよくば恋が始まる、そういうものだと麻里那は結愛に説明した。
大きな病院に勤務している外科医の麻里那にビジネスチャンスは必要ないだろうし、明らかに彼氏を忘れるための行動だと結愛は推測した。だが、結愛にとってはビジネスチャンスである。
結愛の両親が脱サラして東京の下町で喫茶店を始めたのをきっかけに、結愛は店を手伝い始めた。製菓専門学校を出た2年後のことだった。紅茶にもコーヒーにも合うお菓子を作ってと頼まれ、スコーンではありきたりだろうと、思い切って餡ドーナツやらカステラ生地に羊羹を挟んだシベリヤやら和梨のタルトやら、古今東西、和洋折衷、あらゆるものを作ってきた。
ただ、結愛はこの頃、別の洋菓子店に勤務しており、店長の許可を得て両親の店を手伝っていた。そのためお菓子は一日に1種類、5個限定で作るのが精一杯であった。
ところが、脱サラした人たちのその後を取材する番組で両親の喫茶店が紹介され、たくさんの客があれよあれよと押し寄せると、結愛の作ったお菓子は「朝から並ばないと食べられない」と今度はSNSで有名になり、一躍結愛は菓子研究家としてマスコミに取り上げられるようになった。
結愛は年齢よりぐっと下に見られる童顔で、鈴の鳴るような可愛らしい声であったので、アイドルとしてテレビが持ち上げるのは当然と言えば当然であった。
結愛は洋菓子店を辞めて、和菓子も洋菓子も作れるスーパーアイドル菓子研究家として、念願のレシピ本を出すことが叶い、そればかりかテレビ局系列のカルチャーセンターから声がかかって、お菓子教室も開くことができたのである。
そんな結愛の次の夢は、外資系ホテルで自分のお菓子を売ってもらえないかというものであった。麻里那の誘いは、そのようなチャンスかもしれない、と結愛は麻里那と違う目的で参加を決めた。