父の病状は、そう良くも悪くもなくという状態が続いていました。父は体調の良いときは、よく散歩もしていました。
しかし、ある寒い日の夜のことです。父が外から帰ってきました。防寒着のコートの前面が少し焼けている状態です。驚いた母が駆け寄り、焼けた服を手伝って脱がせながら、何か話していたと思います。
どうやら、日雇い労働者の集まる場所での焚き火に加わったようで、そこで転んだのかどうかは、わかりません。顔も一部、軽い火傷を負っています。服も手で払えば、パラパラとすすが落ちる程度でした。火だるまになっていたところです。やはり何事も心配な父です。散歩でも無事に戻ってくるまでは安心できないと思いました。
母は、相変わらず忙しく走り回っていました。仕事に家事にと忙しく自転車に乗っていたところ転んでしまい、足を骨折してしまったのです。父は、自分の責任のように感じていたようで、自分の不甲斐なさのようなことを申し訳なさそうに口にし、母のトイレの介助や移動に必死に寄り添っていこうとしていました。
家での生活は段差も多く、二日ほどして、やはり安静にして早く治るようにと、母は、入院することになりました。家族みんなを支えていた母が家にいない、ということは、私たち子どもにとっても大変でした。でも、父の方がもっと、心の痛手を受けていたのだとわかりました。
母の入院のショックから、父は、また病状が日に日に悪くなっていきました。家で大きな声で話すようになり、大きな行動は起こさないものの、妹の髪が長いなどと言って怒り、妹につかみかかるところを、私は止めに入りました。また緊張感が漂ってきていました。
早くなんとかしなければ、でも、どうしたものかと、私はこの緊急事態に焦る気持ちもあれば不思議と落ち着いてもいました。入院している母の病院が近くだったので、母と相談し、私が父を入院させる、と決めました。私は思い切って、一一九番に電話をかけました。
「家で父が精神錯乱状態です。かかりつけの病院へ運ぶよう、お願いしたい」というようなことを伝えました。「我々に危害がくわえられるようなことはないか?」と聞かれ、「ないです、大声だけ! お願いします」と、私もそう言い切るしかしかありませんでした。
救急車に、私と、父の会社の上司の方も同乗していただけました。救急車といっても、父の体の外見はけがもなく普通です。父も座ったままでした。搬送中、父は同乗していただいている自分の上司に、すでに入社内定が決まった私のことを大声で話しだしました。「うちの娘は、○○会社ですよー! 本社ですよー」と。
実は本社ではないのですが、これも病気のせい、なんでも、ことを大きくして話してしまうのです。それでも会話の中に、自慢したい娘への思いを感じました。また、「そうだね、やはり入院した方がいいね」と、自分で自分を見つめてもいました。やっと、病院に着くことができました。一安心です。
後日、私は父の入院の用意、着替えなどを準備し、また病院に来ることにしました。これまでの私は、病院へ行った際、たいていは、受付か看護師さんに荷物をことづけてくるだけでいい、と母の言う通りにしてきました。でも今回は、できるだけ近くまで会いに行ってみよう、私が入院へと動いたのだから、と思って行きました。
専用の鉄板の扉の横に電話のようなものがあり、用件を話し扉が開きました。入っていくと他の入院患者さんからの視線を感じました。この若い女性は、誰の見舞い客だろうか、と興味深かったのかもしれません。私は軽く会釈しながら歩き進むと父と会えました。父は全く普通に落ち着いていました。私からの荷物を受け取ると、父は礼を言い、それだけで、もうサッサと帰るように言われました。長く引きとめたくはなかったようでした。
看護師さんは、「あら、もうお帰りなのー」と、私にも明るく声をかけてくださいました。そして、日が経過し、母が、そして父も退院となりました。