二口ほど飲んだ後、わたしが手渡した名刺を再び眺めた。

「字が小さくてよく見えませんね。若いころは、どんなに細かい字も読めたのですが……。最近は視力がだいぶ落ちてきまして、文字を読むのに苦労しています」

「それは大変ですね」

「弟にはよく『白内障か緑内障かもしれない。眼科で診てもらったら?』と言われるけれども、いまさら診察してもらってもねぇ。もう百歳を超えているから、治してもらったって、すぐに悪くなるだろうし」

「弟さんがいらっしゃるのですね」

「はい。ボクと十歳違いだから、九十歳になります。家族で隣町に住んでいますよ。それで、えーと、繭子さんの職業は?」

名刺を遠くにかざして、カタカナ交じりのわたしの肩書きを読み取ろうとしている。

「ギャラリー蒼々(そうそう)のキュレーターをしています」

「キ、キュレ、何とかですか。聞き慣れない職業ですねぇ。どんな仕事をなさっているのでしょう?」

「学芸員のことです」

「ああ、そうですか」と頷く。

「お店のオーナーがハイカラ好きで、何でもカタカナ語にしちゃうのです。困ったものです」と、言い訳じみた返事をした。

するとカメさん、

「今は肩書きも横文字が多くてねぇ、なかなか覚えられない。百歳を過ぎた老人には、到底ついていけませんな」。

「百歳どころか、三十五歳のわたしもそうです」と答えた。

伝説の仙人は、さもおかしそうに「おっほっほ」って笑う。

カメさんはわたしに対して、何か問いたいような表情を見せた。きっと、独身かどうかを尋ねたいのでしょうね。でも、本人を目の前にしては聞きづらいのだろう。なので、わたしの方から先読みして答えた。

三十路(みそじ)をとうに過ぎましたが、まだ独身です。なかなか縁がなくって」

「ほほう、じゃあボクとおんなじ。ボクも独り身になって半世紀以上になります」

孤高の芸術家は口をすぼめるようにして、また「ほっほっほ」と笑った。

「繭子さんは、なかなか楽しいお嬢さんだ。ところで、ギャラリー蒼々は、どこにあるのでしょう?」

「県庁所在地の福島市にあります。電車で四十分ぐらいの距離です」

「そうそう、名刺に住所が書いてありましたね。これは失礼。同じ福島県内ですね。ご近所だと言ってもいい」とカメさん。

「最近は足腰が弱くなってねぇ。近所のスーパーに行く以外は、街の中を歩いたことがない。どこにどんな店があるか、さっぱり分からなくなりました」

こう話した後で、思い出したように尋ねてきた。

「はて、画廊の学芸員さんが、どんなご用件でしたっけ?」

あらま。やはり、百歳のご老体だわねぇ。用件は手紙で知らせてあったし、了解の返事もご本人からもらっているのになぁ。苦笑する。

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