乞食と言えば“観光乞食”がある。数年前、六十年ぶりの中学のクラス会を首都圏(しゅとけん)に住む同級生の世話(せわ)で、東京にした。

“ハットットバス”で巡るコースの中に観音(かんのん)(もう)でがあった。もともと信心が薄いながら、線香の(けぶり)は浴びた。賽銭(さいせん)に小銭を選ぶのはいつものことだ。

面倒くさいいきさつがあるので、韓国の三十三観音巡りの話は改めてとなるが、かの国はどの寺も賽銭で音を立てるなという、つまり紙幣(しへい)のみに限るのだ。硬貨(こうか)では額面が極端に小さいからだろう。さながら山寺に静謐(せいひつ)を求めるようでも、宗教団体のひねり出す、あからさまな金集めの方策にしか見えない。

一行は落ち合う場所を決めて、気の合うもの同士数組に分かれた。墨田川沿いの観音は本殿前の煙をくぐり、いずれも初見(しょけん)物見(ものみ)遊山(ゆさん)、混み合う仲店の通りを外れて、境内(けいだい)の外回りにさしかかると、路上に、椅子テーブルを雑多(ざった)に並べた、居酒屋棟(いざかやとう)に出くわした。

折りからの晩春(ばんしゅん)の日差しに渇いた喉は、共に歩く四人に、よく冷えた生ビールが浮かんだと思いきや、久しぶりの呑兵衛(のんべえ)のはずの畏友(いゆう)断酒(だんしゅ)状態(じょうたい)だという。前立腺(ぜんりつせん)(わずら)って(しも)が管理し辛いからと言う。残念だが致し方ない。無理は不要だった。

パイプ製で積み重ねのきく四つ足の丸椅子は、むき出しの禿げかけた陳腐(ちんぷ)なアスファルト道路を押さえていたが、店は賑やかにはやっていた。

このあと隅田川を船で下るので、乗船(じょうせん)の時間を気にしながら、日陰(ひかげ)のないまま椅子が空くのを待った末、地面成りに天面(てんめん)の傾いた粗末(そまつ)な四角の一卓についた。注文を取りに来た女店員は、飲み物を注文した三人にしか椅子に座る権利(けんり)はないと、かの友に去れという。前立腺(ぜんりつせん)肥大(ひだい)の彼は何も注文しなかったのだ。

ならば四人分の飲み物を頼むというと、一人で何杯飲んでもそれは歓迎だが、待っているお客さんがあるかぎり、(ひと)(やす)みに椅子を貸すことはできないと、悪徳(あくとく)議員(ぎいん)のごとくキッとして言い切られた。それなのにこの店員は、石ころがむき出した地道(じみち)だった。手の行き届いた田や畑は石ころ一つないというのに。

花を見る会の大尽(だいじん)でもあるまいし、大上段(だいじょうだん)は恐れ入る。観音(かんのん)様とは聞いて呆れる。なにが東京イの一番だ。御本尊(ごほんぞん)がなんでも、もともと宗教団体は分裂の温床なのだ。腹を立てて飲むビールの味はどうかと言えば、よりビターだった。それで思い出した。むかし車中で、フェラチオの終わりにザーメンを飲み込んで、やおら“ビターなこと”と宣うたのは順禁(じゅんきん)※注1の女子大出、すでに“アラフォー”をあとにする小母さんだった。


[注1]規則に従う様。また純金の華々しさを暗喩する。生粋の錬金術師(れんきんじゅつし)成金(なりきん)を指すのは間違い。