【前回の記事を読む】「頭では変だなぁと…」自己中心的な責任者が生まれる"本当の原因"
創業そして解散
貴族が絶好調の一条院に至っては一代で七つの御時を号した。天変地異には抗いがたい畏怖があるからだろう。自然の脅威は人生の脅威。やっかいなのはこの世の貴族の政争があった。今時に見るような官僚の腐敗をも窺わせる、ひどい陰謀策略。
千有余年、時間が移っても時官は何も変わらない。かの平安王朝の体力をそいだのは、明らかに人為的失態だった。元号の改変は程度によるとしても、今時なら矢継ぎ早になるのだろう。
平安時代なら元号を替えてしまいそうな近年の天変地異は、筆頭が満五歳時の“敗戦”(1945年8月15日 玉音放送)ではなかろうか。聞いた記憶は皆無だが、我が諸々の記憶の始まりのころ。空襲で焼け出されて、道ばたに放り出された。
大きい体験としては、3月から18才で働き始めたその年の“伊勢湾台風”(1959年9月26日)がある。水没した親類を見舞う道すがら、水死体をみた。これより前、6月に同僚が目の前で感電し、事故死している。
“阪神淡路大震災”(1995年1月17日)も他人事にならない。転職する数年前まで毎年頻繁に、その時期(冬期)その時間帯(早朝)に、須磨から明石へ第二神明道路を走っていた。仕事柄明石の漁場に通ったのだ。
さらに、何度も舟で渡った淡路島の富島港が、北淡震災記念館の“きわ”で、激震地だったのは、驚きだった。記念館で大地の裂け目を見た。四十八才で転職してまもなく最初に手がけた発明は、神戸市役所脇の電機販売ビル、6階の催事スペースに施工した“折り畳み収納ステージ”だった。震災でビルは傾いたらしいが、こちらは結果を何も知らない。
今一つは“東日本大震災”(2011年3月11日)だろう。宮城県の多賀城市、貞山運河の岸に構えた客先が、仕事を離れて案内してくれた鹽竈神社とか、集金にお供した七ヶ浜、釜石、志津川など。三陸もまた出張先だった。
海から離れる転職を決定づけたのは、大型収納舞台の実用化で、いわき市には全校生徒が1500人あまりという中学校に、平成二年、藤沢市の小学校につづく二例目を取り付けた。
工事中のつかの間に見た塩屋崎の真冬の光景は“ひばり”のカラオケのタイトルバックそのままに、海鳥が飛びかって無性に裏さびしかったものだ。
そのあと、震災の直前には東北大学にオリジナルの昇降台を納めていた。電話口に、用途を確認したうえで不安定に地震を心配したら、担当の女性教授は、“床にアンカーは打てないので別の方策を考える”と冷静だった。思いつきでアウトリガーを御負した。いつの間にか地震に敏感になっていた。教授には未だに電話一本の見舞いも確認もできていない。
様々な旧知の人、物の被害を想像してその夜、一人布団の上で慟哭した。たまたま当日は年寄りの行事で京都の北野天満宮の観梅だった。帰りのバスのディスプレイで、仙台空港のジェット旅客機が津波に漂うのを見たのが、とてつもなく後ろめたかった。さらに、近年の風水害も看過できない。