Passengers ――過ぎ去りし人たちへのレクイエム
最後の温泉旅行
時折、外来で見かける男の表情は明るかった。彼が説明通り「真菌による病気」を信じているかどうかはうかがい知れなかったが、おそらく妻は隠し通しているように思えた。
ある日、外来を訪れた男は私に封筒を渡した。
「先生、独身でしょ。僕の会社の社長の娘さん、どうかなと思って。気立てのいい、きれいな娘さんですよ」
私は確かにその時は独身で、決まった相手はいなかった。ちょっと興味はあったが、この封筒を開けてしまえば男との関係がまた近く太くなる。男の運命を知っているだけに、それは避けるべきだと考えた。
「ごめん、今付き合っている人がいるんだ」
「そうかあ、残念だなあ。いい娘さんなんだけど、写真だけでもどう?」
あの日「こいつが主治医か」という目で私を見つめた目には優しい光が宿っていた。
「目移りしたら彼女に怒られるよ」
「それもそうだね」
男は残念そうに封筒をポケットにしまい込み、外来を去った。
術後3カ月目に男は妻と温泉旅行に行った。その少し前に妻が私のもとにやってきた。
「先生、旅行に行ってみようと思います。いいでしょうか」
「もちろんいいと思いますよ、楽しんできてください」
「最後かもしれませんし……」
と彼女はポツンと言った。その時点で男の体重は10kg以上減少し、息遣いも荒くなっており、状態が急速に悪化していることは誰の目にも明らかだった。
数年後、そのことをふと思い出した時、私ははっと気付いた。妻の苦悩が何もわかっていない自分の言葉が彼女の心を傷つけたことを感じ、体中に冷汗が流れ鼓動が速くなった。彼女が楽しめるはずなどなかった。
日々、事実の重みに一人で耐えている彼女に平穏な時間はなかった。あの旅行は残された時間の中で二人の存在を確かめ合い、刻み込むためのものであったのだ。そのことに気付くには、あの頃の私はまだ若く未熟だった。
それからほどなくして彼は死んだ。死の直前、私は先輩医師の指示に従い、蘇生処置のために家族を病室の外に出し、死亡を確認してから家族を部屋に入れた。妻はふた回りも小さくなった夫の遺体にとりすがり、泣き続けた。
その姿を少し離れたところで少し頭を垂れながら見ていた私の頭の中には、先輩に言われた病理解剖の承諾を得ることが去来していたことを覚えている。今の私なら妻の傍らで目線を同じくして彼の体に手を添えて、その嗚咽が静まるまで待つだろう。でもその頃の私は何をしたらいいのかわからず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
もう私は彼の享年を大きく超えてしまった。