【前回の記事を読む】私は何の病気でしょうか…医師が語る「患者と家族への伝え方」

Passengers ――過ぎ去りし人たちへのレクイエム

私がふと目を上げると男の妻の目に涙が溢れていた。私は重い事実をいずれ話す下準備、つまりショックを和らげる目的で妻に説明したつもりであったが、妻の涙を見た途端、それは妻が抱いていた不安の扉を開けてしまった後悔に変わった。少しして妻の口から漏れ出た言葉は「私、一人でこれからどうすればいいの、あの人なしで……」だった。私は呆然として言葉を失った。

その頃の私には他人の運命を知ってしまった者の責任と、その言葉の重みはまだよくわかっていなかった。まだ学生の殻を纏った経験の浅い色白の幼虫がそこにいた。男の運命の砂時計は逆さまになって時を刻み始めており、妻の砂時計も同じく逆さまになったことが若かった私にはまだわからなかった。

「でもまだはっきりとわかったわけではありません」

やっとの思いで妻に語りかけると、彼女の表情が一瞬和らいだ。私にはそんな言葉は慰めであることはわかっていたが、自分の発した言葉が作り出した状況を好転させるには、それしか思い浮かばなかった。

「病気には個人差があります。手術の効果、薬の効き方にも差があります。それはある程度試してみないとわからず、治療を進めながら考えていくことになります」

話の終わる頃には彼女の瞳には輝きが戻り、私はやっと胸をなでおろした。気がつくと額には汗がにじみ、動悸はまだ収まっていなかった。私は彼女が病室に入るのを確認して詰所に戻った。