【前回の記事を読む】小林秀雄が「科学への理性の貢献」を限定的に見ていた理由とは

「明晰なる無知」と学問は同根で、常識に根差していること

ちなみに、以上の検討から明らかなように、「明晰なる無知」は、自然科学に代表される“実用的な” それと、哲学に象徴される“非実用的とはいえ、有用な”それに分けられるのである。

それに対し、「混濁した無知」は、その混濁のゆえに、弊害(へいがい)をもたらすだけの、単なる無用の無知なのである。いずれにせよ、問題は、日常的な知の在り方一般─自然科学も、しょせんはそこから洗練され、枝分かれしたにすぎない─の問題であるから、歴史や社会、批評、その他の知や学問の分野にも共通に見られるのである。

かえって、その洗練や厳密が、実験といった方法それ自身によって外部から強制、担保されない分、問題は内攻化(ないこうか)、複雑化して、深刻とも考えられるのである。

いわば、玉石(ぎょくせき)(ふるい)にかける方法上の手立てもないままに、知自体が、未分化の原始の混沌たる状態のままに放置されているのである。
さらには、追い討ちをかけるように、自然科学の目覚ましい成功が、ジャーナリズムの氾濫(はんらん)相俟(あいま)って、疑似科学や形骸化(けいがいか)した実証主義といった、見当違いの模倣(もほう)を無意識のうちにもたらして、その日常的な混乱の拡散に拍車をかけているのである。

かくして、「明晰なる無知」は、時代の知の秩序や在り方が、その旧弊(きゅうへい)の混沌たる実相(じっそう)において、いわば懐疑の火に燃えて、うずたかい灰と化した中から、新たに(よみがえ)り、誕生すべき“不死鳥”に似ているのである。

─人間的自由の高度の現実や内的生の新たな覚醒であり、第二の視力の誕生を告げるのである。