(一)袴田五郎左衛門のルーツ発見

第一の発見は、楠木家当主の「楠木正俊」(楠木殿)の通称名が「五郎左衛門」と記されていた。私が推測するに、袴田五郎左衛門は楠木一族の尊敬する当主の名にあやかったものである。さらに追記すると袴田五郎左衛門は、いつの日か自分が楠木一族であるという身の証しを子孫に知ってもらいたく、願いを込めて名付けたものと思われる。したがって手前味噌の解釈であるが、私は都田・袴田家の始祖である五郎左衛門の願いを叶えることができたのではないか、と自負する次第である。

第二の発見は、楠木正俊と満俊の妹が「安間七郎左衛門」の妻であることが記されている。前述の「はじめに」の欄で、安間と袴田は静岡県の固有姓であり、かつ楠木・和田と姻戚関係の間柄であることがまさに実証されたのである。

第三の発見は、前述の二つの発見から類推して袴田五郎左衛門の実名が「楠木行遠」「楠木高貞」の兄弟に絞られた。また彼らの祖父が「満俊」(泉州岸城主・岸和田殿)、父が「正延」(別名・高遠、岸和田和泉守)、兄が「正遠」(和田和泉守)であることが判明した。したがって、都田の袴田家の始祖が次男の行遠、すなわち袴田五郎左衛門である。二俣の袴田家の始祖は、三男の高貞、すなわち袴田高貞である。

第四の発見は、彼ら三兄弟の母が楠木正成の姉であることが分かった。したがって、彼ら三兄弟は正成の甥に当たるのである。

四つの発見から類推して分かったことは、都田の袴田五郎左衛門は楠木家の遠祖どころではなく、まさに最も深い血縁関係であったのだ。むしろ重要なことは、長兄の正遠を除く兄弟の、その後が系図に記されていないことだ。その理由の一つは、彼ら兄弟の身に何か原因があったからであろう。もう一つは、当主の楠木正成をリーダーとする楠木一族の動向に左右されたことが推測される。