【前回の記事を読む】絶望的な悪性進行胃がんの発見…余命宣告された妻が7年間も生きた理由…

歩 2018年12月

師も走るほど忙しい、と言われる12月ではありますが、今日は自分の足でしっかりと歩むようになった私の次男の話をしたいと思います。私には子供が四人おります。上三人が男で一番下が娘です。次男は誠と言います。誠以外の三人は勉強よりもスポーツを好み、私や妻もそれを良しとしていました。ところが誠だけは、自分から進んで勉強に励みました。それだけに成績も良く、妻の自慢の子であったのです。

しかし、高校一年になったある日、突然「鉛筆の芯の黒い色が恐い」と言い出し、以来、ずっと机に向かえなくなり、そのうちほとんど学校に行けなくなりました。なんとか最低の出席日数は確保して、高校を卒業はしたものの、精神状態は改善するどころか、ますます悪くなっていきました。

丁度、その頃妻はがんを宣告され、私も妻の闘病生活に多くの時間を掛けたため、構ってやれません。そのうち、誠はリストカットまでするように追い詰められていったのです。病院から手術をしてもだめと言われた妻は奇跡的に回復しながら、7年後、隣の犬にかまれたことが災いして亡くなりました。

私は、しばらくは悲しみのあまり、何もすることが出来ませんでしたが、気力を振りしぼり、次は次男の番だと決意したのです。ただ、どのようにしたら良いのか、見当がつきません。医師からは「この病気は入院しても良くなることは期待出来ませんよ。家族の愛情、サポートが一番ですよ」と言われたので、どんなに忙しくても自分でサポートしようと思いました。

ある日、ふとテレビを観ていますと、精神的な病にはウォーキングが効果的と言っていました。これだ! と思い、さっそく誠に「一緒に歩こう」と提案。でも、最初のうち歩き始めてふと後を見ると、彼がとぼとぼと家に帰っていくではありませんか。しかし根気強く誘い出しているうちに、私と並んで歩けるようになっていきました。

手ごたえを感じた私は出張や外泊をやめて、毎日毎日誠と歩きました。どんなに遅くなっても誠は私の帰りを待っていました。雨が降っても雪が降っても、傘やカッパを着て二人で歩きました。時には彼の方から「今日は日曜やから遠出をしよう」と言われ、50㎞も歩いたこともありました。

そうして二人でひたすら歩いているうちに、次男の顔色に少しずつ変化が見られるようになり、目も若々しさを宿すようになりました。回復してきたのです。勿論、一緒に歩いている時にも、いろいろと励ましの言葉を掛けました。歩き始めて三年ほどたった時、このような言葉を掛けたことを憶えています。

「比叡山延暦寺の千日回峰行を二回も成し遂げた酒井雄哉さんを知っているやろ。誠は酒井お聖人より立派やで」。