第二章 仮説社会で生きる欧米人
予定説と仮説社会
前稿で日本人と欧米人は、本質の捉え方、考え方に違いがあり、この違いから日本人は帰納法を得意とする思考となり、一方、欧米人は演繹法の思考になると説明しました。一般に欧米人がある事柄を人に説明する場合、彼等はいきなり結論を述べることをせず、まず本質に近い仮説を立て、必要な現象を抽象(取り入れ)し、必要でない現象を捨象(捨て去り)して説明すると言われています。
本質に近い特性を前提に話す、この話法は演繹法に基づく思考、話法となります。欧米人が得意とする演繹法は、古くはギリシャ哲学に見ることが出来、またキリスト教の三位一体説にも取り入れられています。キリスト教が唱える三位一体説の骨子は霊という概念を採り入れ、創造主は霊を発しその子息のイエス・キリストも霊を発し、人々はその霊を受け、三者が一体化となる構図となっています。
三位一体説の概念は、人々が住んでいるこの世(現世)を天国に行く前段の仮りの世「仮説社会」と捉え、人は肉体が滅んだ死後、魂となり、本当の社会、即ち、「神の許の天国」に行くという考えを基本にしています。この世を仮説社会、神がいる天国のあの世を本当の社会と、二段に分ける考えは、日本人の私達には馴染めない考えになります。
私達日本人は、肉体が滅んだ後、土に還り墓地で眠るとする説をごく自然に当たり前のように採り入れています。人間には生死がつきものです。人は死んだ後、神のいる天国に行くのか、それとも墓地に入るかは、地上と地下の違いであり、割り切ればそれなりに対処出来るかも知れません。
だが、キリスト教では、人の死後、魂となって天国に行くとする考えには、さらに注釈がつき、天国に入れるか否かは、神が予め決めているとする、「予定説」があります。
予定説は、キリスト教の教えに基づき十六世紀に宗教改革者のカルビンが唱えたとされ、その要旨は、人の死後、魂が神のいる天国に入れるか否かは神が予め決めているとする説で、さらに天国に入ることの出来る人間は「倫理的」な生き方をするものだとし、そのため人は信仰に生き、無駄のない禁欲的生き方をするものだと、する考えです。友人によると、予定説は、キリスト教の骨格となっており、そのため欧米人の生き方に強く影響を与えていると主張をします。