「傘をさしかけるより一緒に濡れて」

なすすべなく泣くよりほかなき吾のままを受け止め濡れし九十の母(二〇一五年五月)

黙々と働く二男を見て私も奮い立ったり、二男特製のお菓子にほっとしたり、畑や花壇作りに時を忘れたり、長男家族と交流したり家族会へ参加したりして、一日一日をやり過ごしました。

「あの人は、前はあんなふうに思って行動していた」と、その感性やものの見方を思い出して、今の姿は本当じゃないと打ち消そうとしました。それでもこれから先を考えるとどうしようもなくなって、電話で母の声を求めてしまいました。途方に暮れる私の声を母は黙って聴いてくれました。

「辛いなあ。なんにも役に立てんで済まないなあ」と言いながら、一緒に辛さを持ってくれました。私は楽になりました。

高森信子さんの本にあったように、「傘」という物を与えてもらうより「一緒に辛さの雨に濡れてもらう」方が、どんなに温かいか。やり場もなくごまかしようもない私の心を、どんなに和らげて、立ち上がってみようという気持ちにさせてくれたことか。そんな繰り返しを、母は三年もしてくれました。

一方二男は、「一人で留守番するおばあちゃんの助けになろう」というきっかけから、二年目の秋には兄以外の家にも行けるようになりました。このことも、母が二男にくれた手紙の揺れた文字たちも、母のふるまいも、二男と私には安心できる居場所でした。またそのような配慮をしてくれた姉たち夫婦でした。

二男は母の誕生日や年末に、カードを添えた手作りの和菓子や超でかいスケジュール帳(母の手でも書けるようにと探してくれた)を持って行きました。母はそこへ、毎日千歩を目指して足踏みした数を記しました。

つながりの糸が、兄家族から一歩広がりました。この糸も回復の大きな支えになりました。

九五歳になった母は、今は認知症が進んでいます。五分も経たないうちに忘れてしまいますが、会いに行くと、私たちのことは分かってくれます。

「いいことも悪いこともみんな忘れてしもたわ」と言った後、今度は自分の頭を指さして「スッカラカンになってしもて……」と続けます。ニコニコして。私は嬉しくなります。生きているだけでもうけもの。

姉が言います。「おばあちゃんの生き方って『気は長く 心は丸く 腹立てず 口慎めば命長かれ』なんやなあ」と。

……腹の立つことをしてきた娘の私としては、ごめんなさい。