一方、お母さんは教育を重んじ、私に様々なことを学ぶ機会を作ってくれた。お父さんの反対を押し切って、ピアノ、歌、習字などの習い事に通わせてくれ、自身が得意な算盤は、自ら先生となり教えてくれた。更には、あの時代の田舎町を思うと先見の明があり、英語やパソコンも学ばせてくれた。

お母さんは、「英語は小さいうちから学んだほうが、身につくのが早いんよ」と唱え、私が小学校に入ると同時に、毎朝、ラジオ英会話を聞かせた。私はそれを楽しんで聞いていたが、お父さんがそんな私を目撃した時には、いつもの調子で、「英語なんか勉強せんでええの! なんちゃにならんのやけん!」と罵った。

私はお父さんの目を避けるように、唯一ラジオが入る台所の隅っこで、朝冷えに耐えながら、こっそりとラジオを聞き続けた。寒さと眠たさで今日は辞めておこうと思う時も、お父さんの思う壺のような気がして、ラジオを聞き続けた。おかげ様で、英語が一番の得意教科になった。

私が小学三年生になると、お母さんは、「今からはパソコンの時代やけん」と唱え、一年間だけパソコン教室にも通わせてくれた。このことは、もちろん、お父さんには内緒だった。お母さんが、将樹の保育園の迎えに行くために家を出られるので、そのついでに私を教室まで連れて行くことができたのだ。

けれど、将樹が小学校に上がって家を出る口実がなくなると、お母さんはお父さんの目を盗めなくなるのを怖れ、私に教室を辞めさせるしかなかった。私は残念でならなかったが、この一年でタイピングをマスターした。教室に通う代わりに、お母さんは、何処からかウインドウズ95搭載のデスクトップパソコンを買ってきた。ブラウン管のテレビのような大きさだったから、お母さんはお父さんに、「真美子おばちゃんからテレビをもらった」と嘘をついた。お父さんも、仲のよい真美子おばちゃんからもらったなら、とそれについては何も文句を言わなかった。

私はパソコンの前で、いかにもテレビを見ているかのように、指を隠してタイピングをし、シャドウイングに磨きをかけた。おかげ様で、私はパソコン通になった。このように、私は勉強好きに育ったのだが、勉強のさせ方に関しては、私も息子たちに対して、お父さんを手本としようかと思うくらいだ。