【前回の記事を読む】「わたしは一生母親のペットだ」毒親に育てられた娘の壮絶人生
自己との出会い、そして唐突な別れ
自分の気持ち、意思を知ろうとするあがき
この[解釈]をきっかけに、彼女は自分の内面にいる母親を意識し、その影響を排除することに目を向けるようになった。当然、すぐに私の話に納得できもしないし、母親を切り離すこともできない。現状を振り返り、乗っ取られ感が強まると口惜しくて涙が出てくるし、乗っ取られないように自分の中から母親を追い出すということを考えると、どうしていいかわからなくなってつらくなりまた涙が出るといった調子であった。
しかし、[論理的な介入]とともに、彼女が何とかしようとこれまで頑張ってきたことを繰り返し評価し、努力の方向性を見直すだけでだいぶ楽になるし変わってくるはずだと繰り返し伝えることによって、涙を流しながらでも次第に前向きに取り組めるようになってきた。
努力の方向性を見直すとはどういうことか。それは、母親を意識して自分のすることを決めて努力するのではなく、自分がどうしていきたいか、どうすれば満足できるかを考えて努力するようにするということである。
しかし、その作業は容易なことではなかった。
彼女自身が驚いたように、自分が何をするかを考えるときには、常に母親を怒らせないとか母親の鼻を明かすとか母親のことを念頭において考えてきたので、自分自身はどうしたいのかとか何をするのが好きなのかということを聞かれても、すぐには思いつかないのである。
試みに聞いた、〈お母さんの料理はおいしいと思いますか〉という問いにも、おいしいかどうかすぐにはわからず絶句してしまった。ようやく、
「母の料理は、おいしいとかまずいとかでなく、全部食べなくちゃいけないと思って食べていました」
「いつ叱られるのかわからないので、いつも緊張して食べているから……味はあまり考えていません、早く食べてしまおうとか、そんなことばかり考えています」
と答えてくれた。
彼女にとっておいしいごはんとは、誰にも気兼ねなく一人で食べるご飯で、付き合っている彼との食事にしても、「わたしの食べ方がおかしくないか気になって、あまり味わう余裕はない」のだそうである。
このように、生まれたときから母親が自分の生活の中に深く入り込み、その中で心の中に作り上げられた母親が、すべてにおいてあまりにも大きくのしかかっているので、支配されていることを意識できないままここまで生きてきたようだった。食事のように気づかないまま母親の支配を受けて、自分の気持ちや好み、楽しいか楽しくないかさえ気づかないようなことが、たくさん生じていた。