「宇垣の他には、適当な人材はいないのですか?」
「一九三一年の時点では、該当者はないようですね。傑出した政治能力の持ち主だった政友会の原敬は、十年前の一九二一年に暗殺されています」
「わかりました。だが、彼の経歴を聞いて気になる点があります」
ボースが言う。
「と言いますと?」
「汪先生はさきほど、彼が軍事クーデターを計画したとおっしゃいましたな」
「いわゆる三月事件ですが、しかし、これは直前になって宇垣の心変わりで未遂に終わっています」
「事件そのものが闇から闇に葬られたのですか?」
「いや、計画の内容は外部にも漏れ出して、ほとんど半ば公然の状態だったようです」
「だがこの件で、宇垣は訴追され処分されることはなかった」
「そうです」
「それはおかしい。いやしくも陸軍の代表者である陸軍大臣が政権を奪おうとしてクーデターを企てたのでしょう。当然、国家への叛逆の罪で、厳しく処分されるべきです」
「しかし、そうはなりませんでした。そのあとの十月事件も陸軍部内で発生したクーデター計画でしたが、これも未遂で、関係者の処分はやはりうやむやで終わっています」
汪が答えると、ボースは声を強めて言った。
「法治国家としては、それはあり得ない。司法部門は一体何をしていたのですか?」
ボースの発言に対して、汪も大きくうなずいた。