毒の滴り
しかし鬼塚が自分の配下として新しく引き入れた女を本気で信用するには未だ幾つかの関門があった。その週末鬼塚は熱海の温泉ホテルに出かけようとしていた。麻衣は自分も連れて行って欲しいとねだった。
「連れて行ってくれればマッサージは只にするわ」
「言っとくがあんたと俺は公共の場に一緒には出かけられない」
麻衣は一緒に歩かなければいい、それに自分はカツラや服装で変装すれば本人とは誰にも絶対に分からないと言った。鬼塚は彼女を値踏みする様に眺めて少し考えてから旅費は自分で持つかと聞いた。
「あなたは見かけによらずケチなのね」
と彼女は口をとがらせてふくれ、それでも一緒に行きたい、でももし旅費は自弁と言うならマッサージは無しだと言った。男は笑ってマッサージの他に特別サービスも付けるなら旅費を持とう、とようやく彼女の同行に同意した。
鬼塚は彼女の言う〝目腐れ金〟はその程度の額だったのかと言って大笑いした。女は男を殴るジェスチュアをし、その後肩にしなだれかかって来た。彼女は美容院に行って髪を明るい栗色に染めた。
そしてサングラスを掛け男とは別の列車で熱海に行き、同じ旅館の別館に部屋を取った。夕食は鬼塚の部屋に配膳して貰った。食事をしながら男は女に言った。
「あんたと前に会ったことはあるか?」
女は首を振って答えた。
「分からないわ。あなた、広島に行ったことある?」
男は頭をかしげてつぶやいた。
「俺は日本全国歩き回っているからな。でもいい女なら一度見たら大抵忘れないけどな」
「じゃあ会ったことないわよ。それに昔は私、いい女じゃなかったわ。東京に出てあか抜けたのよ」
温泉宿で鬼塚は彼の〝騙しの美学〟の続編を女に伝授した。この世の中には騙される人種というのがある。一度騙されると同じ人間が繰り返して騙される。だから原野商法やねずみ講、オレオレ詐欺の被害者のリストは高額で取引されるのだ。
「ひょっとしてその人たちは騙されたかったのかもね」
鬼塚は麻衣を見て少し口を閉じたがやがて笑い出して、あんたの言う通りかも知れんと言った。
そうだ、この世には騙されていたいと思う奴もいる。ちょっと危ないと感じてもそう思いたくない。ことに欲に引っ張られると人間は信じたいと思うことを信じるものだ。そんな奴らが居るからあこぎな稼業が後を絶たない。
女は声に出さずに胸の中でつぶやく。
(そう、そのあこぎな稼業の大元があんたよ。)
「大体騙しとは何ぞやと聞きたいもんだ。ある女が新聞で身の上相談を持ち掛けていた。その女の夫は十二億の財産を持っていたがカミさんは亭主に黙ってその財産を投資して四億に減らしてしまった。どうしたらいいんでしょうと言うんだ」
この話のポイントは鬼塚によるとこうだ。世の投資会社とか証券会社とかいうものからしてうさん臭い詐欺産業だ。あっちは金融庁の認可を持っているがこっちは持っていない、違いはそれだけだ。
人間は誰しもうぬぼれが強く、自分だけは騙されないと思っている。彼の知っていたカモの一人は鬼塚に言った。
目は心の窓だ、自分は鬼塚さんの目を見ると嘘のつけない人だと分かる、とね。
そう言ってから彼は部屋中が揺れるほどの大きな声で笑った。