エレベーターを降りるとすっかり日が暮れていた。東の空には薄雲に霞んだ月が浮かんでいる。二〇一〇年十月二十日の十四夜の月。
左沢は丘の中腹に建った多摩ヶ丘スポーツジムを出て左側に伸びた長い階段をのぼった。左沢のマンションはこの小さな丘を越えたところにある。ジムから十分ほどの距離だ。
マンションの一階はコンビニエンスストアになっている。店内にはエントランスホールからも出入りでき、左沢は食糧や日用品の買い物をほとんどここで済ましてしまう。
「アテラザワさん、久しぶり。今度もアフリカ?」
缶ビールと野菜サラダとコンビーフをカウンターに置くと、オーナーの内川吾一が待っていましたとばかりに声をかけてきた。内川は百八十センチを超える大男だが、口ぶりはいわゆる“オネエ言葉”だ。
「ええ、まぁ」
弥生と同じ会話の始まりに、今度は否定する気にもなれず、ただうんざりとして曖昧に応えた。
「周平くんのこと、大変だったわね」
内川はバーコードリーダーに目をやったまま言った。
「……」
左沢は無関心を装った。世間話は別のところでやってくれ。後ろに客も並んでいる。
「えっ、何も知らないの?」
内川は目を丸くして左沢を見つめた。
「いえ、何も」
左沢は気のない返事をした。周平に何があったか知らないが、どうせたいしたことじゃないだろう。うわさ好きの内川にいちいちつきあってもいられない。
「えっ、何もまだ聞いていないの、ホントに?」
内川はさらに目を丸くして、ワンオクターブ高い声で「すみません、隣のレジでお願いします」、と後ろに並ぶ客に左沢の肩越しに呼びかけ、左沢をカウンターの隅に手招きした。
(やれやれ)
左沢はうんざりとして内川に従った。
「周平くん、亡くなったのよ」
「……」
「だから、周平くん死んじゃったのよ」
「周平が死んだ⁉」
そこまでの白けた気分が吹っ飛んだ。オーナーはいったい何を言い出すんだ。
「心中だって」
「シンジュウ? 何ですかそれは」
左沢は、うわずった自分の声を他人の声のように聞いた。
「福島県警の刑事さんがここに来てね、周平くんが福島の山中で心中した、何か心当たりはないかって訊くのよ。相手の女性も東京の子みたい。周平くんの恋人じゃないかって言ってたわ。先週の金曜日のことよ」
「で、オーナーの心当たりは」
左沢は、馬鹿な質問をする自分の声を、同じように他人の声のように聞いた。この問いは、まず自分に向けるべきもの、自分のほうが周平とは圧倒的に濃密なのだ。
「あるわけないでしょう。心中に結びつくようなことは何もない、ひと月ほど前に店に来たけど、いつもと変わりなかった、と刑事さんには答えておいたわ。年配の刑事さんだったけど、あなたにも会いたがってたわよ。何か思い当たることある?」
「まったくないですよ。相手はどんな女性だったか聞きましたか」
左沢は、突然出来した事態に、やっと向き合うことができた自分を感じた。
内川は、大きくうなずいて、青い縞模様のユニフォームの胸ポケットから紙切れを取り出し、カウンターに広げた。
「滝山みどりってゆうんだって、アテラザワさん知ってる?」
聞いたことのない名前だった。