これは中小企業の経営者が陥りやすい、経営の、金儲けの核心に似ている。
痛くなければ、苦しくなければ怪我でも病気でもない。利益が上がれば、儲かれば商売をしなくても製造業でなくても、つまり実業でなくてもよいとして、投機に走る。そうやって儲けたとして、向こうに損をする者がいることに気が回らない。いや、初めっからその向こう側だったりする。向こうが分からなければ、取引は片道切符、空しさの極み。
公営博打の公営競馬を娯楽に取り込んでも、カネで投機は手を染めなかった。その読みが存外これまでなんとか会社を持続させた、は手前味噌で、この味噌を飲み込んで未曽有の不景気になる予感。自己中の予感を生んだ政策の“アベノミクス”の大失敗を実感した※1。
見立ては観光乞食ならぬ、乞食のお粥だった。米粒の実のない湯うばっかりだと、言うばっかりは筑つく波ばの蝦が蟇まの油売り、全く信用できなかった。
実は、この読みが会社を解散することにした第一の理由だった。
“アベノミクス”の初めから、赤字倒産にならないで会社を畳む機会を窺っていた。三本の矢は束ねてこそ、になるのに、すべてを順に放つと言うから、聞いた初めからもう駄目だった。良くない方向に発想の転換は認められない。まさに愚の骨頂だ。
そのまた前に聞いた初めは、“美しい日本”で、これが虚言の嚆矢だった。実勢のない景気、虚の趨勢、虚数ならぬ虚趨だ。不景気の予兆はこうして嚆矢という一本の矢に始まった。
もっと古い話、景況をグラフにして、“今は踊り場”といった人(堺屋太一氏)がいたが、政に文学は唐土(昔、日本が中国を呼んだ呼称)の白楽天にしても、つまり平安時代ならいざ知らず。今時は科学だと思うから尊敬できなかった。
それもそうだが、何がいやかといって、生きているうちに自分の記念館を建てるやつ。あんなやつがノーベル文学賞なら俺は自殺するといったら、いった相手は、聞いたやつはあざけり笑った。それでもなんとか生き延びた。
皮肉にも会社清算は、時の政権の長きに付き合ったことになる。七年あまりを要したのだ。案外政権の延命政策に乗っかっていたかもしれない。
※1:前出『白氏文集』“新楽府”その四十七、(天可度)“天も度る可し”とも。