ALS
翌日からおむつ替えは、二人一組で一日四回の定時にいっせいに回ってくるようになった。
回り始めから最後の患者まで、その日の事情によって時間が大きくずれた。おむつの交換時間になると、ナースセンターは手薄になり、痰の詰まりで息苦しくてナースコールを押しても、返事もなく、誰も来ないことがあった。
一般患者であったなら、看護師から「どうしました」と訊いてくれ、緊急性の判断がなされる。気管切開をした患者の場合、患者自ら喋ることができない。
そのため直通の機械による緊急のアラームのみが優先された。それ以外は全てが順番になり、飛び込みは遠慮しなければならなくなった。
そんな置いてきぼりの中いる妻の姿を見ると嫌な気分になった。今回のことも含め、何故そこまで患者が卑屈になって、病院の言いなりにならなければならないのか。そば殻枕とおむつ交換の思いが一緒になって私の心を沸き立たせた。
「詰所に抗議してくる」
私は突然、京子の口パクを拾うことを止めて、五十音字表をベッドの脇の収納箪笥の上に投げた。予期していなかった急激な私の感情の高まりに、顔をしかめ、動かぬ首が上に向いたまま、京子は天井に向かって早口の口パクをした。
なおも、気配で立ち上がった私を確認すると、点滅の信号のように「NO、NO」の深い瞬きを、繰り返し続けた。
次に発しようとする京子の言葉は、パネルを投げ出した私に届くことはなかった。音として発せられない言葉は、私にも、京子にさえも、聞くことができない。無声音になった言葉は、酸素不足の金魚のように、病室の中をさ迷っているだけだった。
さっきまではずんでいた京子の活力は、見る間に大波になり、悪い方向に一気に部屋の隅へと押し流されていった。それは瞬く間に、京子の負の力に変化していった。
心拍数が百五十に上がり、私の目の前で数字が点滅しながら、なおも上を目指していた。血中酸素濃度は、九十五で変わっていない。素早くそれだけを確認した私は、慌てて天井に向いている京子の視線を五十音字表で遮るようにして、目の前にかざした。
受け取る私の感情が高ぶっているため、文章にならなかった。
「ナ・ニ・カ・シ・タ・イ」
「何、貸シタイ」
声に出して一字一字、確認しながら進めても、読む側も、句読点がずれることがしばしばあり、意味不明となった。
「メモ、メモ」
京子の口パクが、今度ははっきりと私の目に留まった。紙に一字、一字、メモをしろということだった。メモをして、区切る所を変えて、抜け落ちている文字を加えて、再び読み込むと、ようやく分かった。
「何カシタイ」
「何カ返シタイ」
パルスオキシメーター(動脈内酸素飽和度や脈拍数を測定する機器)をちらっと見る。まだ、百五十前後を行き来していた。
「看護師サンニ、言ワレタカラデハ、ナイ」
行き先を失って漂っていた京子の言葉が、私にキャッチされた。溢れた涙が、血の気を失って、蒼白になった京子の顔に流れていた。
「誰カニ、返セバイイ。受ケタ恩ハ、誰カニ、返セバイイ。ソウシタナラ、ヤガテ、皆ニ回ッテ、イクッテ、言ッタジャナイ」
受けた恩は、いつか誰かに返せばいい。だから今は遠慮しないでいい。家で排泄の世話をし始めた頃、申し訳なさで小さくなっていく妻を見て、私が言った言葉だった。
その熱い想いが京子の胸で、ずっと脈打っていて、今やっと形になって、出てこようとしていたのだ。それを無惨にも、私が打ち砕いてしまったことに気付いた。
「私ハ、会話モ、出来ナクナル。何時カ、分カラナイケド、口モ目蓋モ動カナクナルカモ、シレナイ。ドンドン、悪クナル。何時、返セバイイ。意志ヲ伝エル事ガ、出来ナクナッタ、私ニ、コレカラ、何ガ出来ルノ? 沢山ノ人ト、逢エテモ、無意味ニナル」